川上 和久

川上和久 -「寺子屋」の教育力

川上和久

麗澤大学教授

 


池田光政が生まれた岡山城

 新渡戸稲造が『武士道』第10章で論じた武士の教育に関連し、前回は、「足利学校」、池田光政が開いた岡山藩の「花畠教場」などを紹介した。

「花畠教場」は、その後岡山藩学校となっていくが、「花畠教場」を創設した岡山藩主の池田光政は、それだけでなく、日本で初めてとなる庶民のための学校、「閑谷しずたに学校」を創建する。1668年(寛文8年)のことである。

 当時の岡山藩は、その数年前の大洪水で、被災領民の救済を迫られていた。光政は、同時に、藩を立て直すためには農政改革が必須であると考え、そのためにも、藩士の人材育成とともに、村役人や地主の子弟の教育を充実させる必要性を痛感していた。

 そこで、庶民にも学問を奨励しようと、閑谷学校を創建するが、それだけでなく、岡山城下に1カ所、諸郡各地に123カ所の藩営の寺子屋を設け、寺子屋の教師を育成するために、藩校の石山仮学館も作っている。池田光政は、まさに「教育立藩」を全国に先駆けて行った名君だったといえよう。

 このような、武士だけでなく、庶民にも教育を行う必要性は、岡山藩に限ったことではなかった。戦国の世が終わり、武力による「武断政治」が終わりを告げ、「文治政治」の時代となった。江戸時代という時代が、庶民への教育も必須のものにしたといってよい。

 

 

●寺子屋の師匠とテキスト

「文治政治」は、御触れや法令など、文書を介した政治が行われることを意味していた。年貢も「割付状」を出し、領収書に当たる「皆済目録」を渡して行っていた。その文書は、すべて「御家流」という書体で統一されていた。民間の商取引も、こういった文書主義の影響を受け、商取引や田畑の売買、金銭の貸借など、御家流の書体での文書が用いられていた。

 平和な世の中で商取引も活性化し、国内経済が発展する中、庶民もこういった御家流の文字を学び、算術を覚える必要が生じた。こういった、平和な時代の要請の中で、武士だけでなく、庶民の教育「寺子屋」が広がっていったのである。

「寺子屋」の語源は、中世の寺院が俗家の子供を預かり、「寺子」と呼んで教育したことにあると言われている。その後、寺子の呼称は「筆子ふでこ」が一般的となった。

 江戸時代の寺子屋の実態について研究した高橋さとし『江戸の教育力』によると、1834年(天保5年)時点での総村数が63,562あり、一つの村に、少なくとも1つか2つの寺子屋が存在していたと考えられるので、63,000以上の寺子屋が存在したであろうと推測している。

 まさに、おびただしい数の寺子屋が江戸時代には存在しており、寺子屋の師匠は初期には寺の僧侶が一般的であったものの、浪人や医師、村役人クラスの百姓・町人が師匠になることが増えていった。

 もちろん、江戸時代を生きていくために必須だった御家流の読み書きのために、初級クラスの読み書きとしての人名の読み書きのテキスト「名頭」から始まり、上級では、日常生活に不可欠な証文類をまとめた「諸証文手形鏡」などがテキストとして用いられ、ほぼ日本列島共通の教科書が用いられていた。

 最も使用されていたのが、往来物の一種で「庭訓往来ていきんおうらい」と呼ばれた教科書である。庭訓往来とは、往来物(往復の手紙)の形式をとる初級の教科書の一つで、南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされている。

 内容は、衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養など、多岐にわたる一般常識が盛り込まれており、25通の手紙からなっており、多くの単語と文例が学べるよう工夫されている。

 一方、算術の入門書として有名なのが「塵劫記じんこうき」で、この作者は江戸初期の京都の和算家・吉田光由であった。九九の掛算や米や材木の売り買い、金銀の両替の方法のほか、ねずみ算などの計算方法が図とともに紹介されている教科書だった。

 

 

●近代国家への道

 実は、筆子たちが学んだのは読み書きと算術だけではなかった。

 筆子たちが、「人としての礼儀を相たしなむ」、道徳心の涵養が重視されていた。

 前掲の高橋敏氏の著作の中で、駿河国駿東郡吉久保村の湯山文右衛門が営んでいた寺子屋の塾則「子供礼式之事」が紹介されている。

 塾則は18か条に及ぶが、いくつか例を紹介すると、

「正座して畳に手をついて額を下げ、心静かに一礼して、来た順に着席しなさい」

から始まり、

「素読を始めたらおしゃべりしてはならない」
「断りなしに教場から出てはならない」
「子ども同士の喧嘩・口論は皆本人が悪いから起こるのであるから親はいちいち取り上げてはならない」
「お師匠さんと対面しないで帰る時は必ず皆に挨拶してからにしなさい。家でも朝食・夕食の時は父母に向かって礼をしてから食事しなさい」

など、おそらくこういった礼を失する態度の筆子がいる中で、礼儀作法をきちんとしつける場として寺子屋が機能していたことを想像させる。

 江戸時代の膨大な数の「寺子屋」の存在は、武士の学びにとどまらず、庶民のリテラシーを高め、武士と同じような礼儀作法を庶民が学ぶことによって、村のガバナンス(統治機構)を充実させ、そういった道徳心の涵養に寺子屋が寄与したことも、明治以降の近代国家の発展につながっていったことを、さらなる研究から解明が望まれる。

 

参考文献
藁科満治 『藩校に学ぶ』 日本評論社
高橋敏 『江戸の教育力』 ちくま新書

 

(令和5年12月12日)

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