川上和久 – 誠意を尽くす武士の魂
川上和久
麗澤大学教授
●前言をひるがえすことなく
新渡戸稲造は、『武士道』 第7章で「真実および誠実」を論じている。
新渡戸は、孔子が『中庸』の中で、「誠実」を神聖視し、これに超越的な力があるとしたことを紹介し、
「この世のあらゆるものは、誠に始まり誠に終わる。誠はあらゆるものの根元であり、誠がないとすれば、そこにはもう何ものもあり得ない」
という孔子の言葉を引用している。
しかし、ここで、多くの人たちは、武士の「誠実」について、疑問を持つだろう。武士は戦って勝つことを宿命づけられている。ロシアによる無謀なウクライナ侵攻で、ウクライナをはじめ、世界中が大きな損害を蒙ったが、もし誠実に戦ったとしたならば、さらに損害が増えたことだろう。
フェイク情報、フェイク目標が山ほどあって敵を攪乱し、消耗を強いているからこそ、より少ない損害で敵に勝つことができる。
武士が敵を欺いて勝利を収めた例は枚挙にいとまがないが、一つだけ例を挙げれば、羽柴秀吉の鳥取城攻めがあげられる。
1580年(天正8年)、羽柴秀吉は、二度目の鳥取城攻めを開始する。
秀吉はまず、鳥取城と周囲の交通を遮断し、海や河川からの補給路も断ったうえで、周辺の村落を襲撃し、住民たちが鳥取城内に逃げ込むよう画策し、農民ら約2000人が先に籠城していた兵士約1400人に加わった。
また、同時に秀吉は「北陸地方が不作だ」というフェイク情報を流して、米を高値で買い占め、素早く兵糧を枯渇させる策を講じたため、鳥取城内は秀吉の進軍から1か月で兵糧米が尽き、「飢え殺し」と言われたほどの凄惨な兵糧攻めで、鳥取城の奪取に成功した。
戦国の世では、誠実であっては、たとえそれが美学であっても、滅びゆく宿命にもなったのである。
それが、武士の誠実が強く求められるようになった背景として、新渡戸は、戦国の世が終わり、太平の世に転じていく中での、封建的な身分社会の中での武士の身分の高さをあげている。
新渡戸は、
「武士は社会的な地位が高いのだから、農民や商人よりも誠実であることが要求された。『武士の一言』というのは、侍の言葉という意味で、ドイツ語のリッターヴォルト(Ritterwort)がまさにこれに当たるが、それだけで、言われたことの内容の真実性は十分に保証された。
(中略)
『二言』すなわち二枚舌を使ったことを、死をもってその罪を償った多くの壮烈な逸話が語られた」
と述べており、信義と面目を重んじる武士は、誠実に相手に接し、前言をひるがえすようなことをしないように努めることが求められたと記している。
●「天は正義に与し 神は至誠に感ず」
明治維新に至って、このような武士の「誠実」は商人の商道徳と相いれない形で摩擦を引き起こし、「武士の商法」として多くの財産が毀損したとも新渡戸は述べているが、江戸時代に培われた「誠実」が幕末に花咲いた例も見過ごすことはできない。
その一人が山岡鉄舟である。鉄舟は1836年(天保7年)、幕臣の子として江戸に生まれ、1888年(明治21年)に没しているが、剣の達人にして禅や書にも長じていた。
1868年(明治元年)、鉄舟は、江戸上野の寛永寺大慈院で謹慎中の第十五代将軍徳川慶喜の恭順の意を、駿府の官軍総督府の西郷隆盛へ伝える使者の役を引き受けた。
鉄舟は、官軍の只中を、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と大声で叫びながら通り抜けて駿府へ到着し、隆盛と面会して、主君慶喜の恭順の意を伝えたが、主君のため、国家万民のために身命を顧みずに乗り込んできた鉄舟の誠意に隆盛は心から感動し、慶喜恭順の意を了解したと言われている。それが、江戸総攻撃の中止にもつながっていくのである。
隆盛は鉄舟のことを、「さすがは徳川公だけあって、偉い宝をお持ちだ」「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」と言って感嘆したと言われている。
鉄舟の私心のない人格、誠意に隆盛は動かされたが、鉄舟は、その後も誠を尽くして勝海舟や西郷隆盛と交流し、明治天皇の教育係を隆盛からのたっての要望で引き受けてもいる。
これだけ誠意を尽くして徳川慶喜や明治天皇にお仕えした鉄舟こそ、「武士の至誠」の体現者だと言えよう。鉄舟が明治天皇の侍従をした功績を認められて叙勲されようとした時に、「まだまだお尽くし足らぬと思っているのに、叙勲などもってのほかだ」と断言し、「喰うて寝て何も致さぬご褒美に、蚊族(「華族」と同音語)となってまたも血を吸う」と言ったとも伝えられている。
私は学生時代坐禅部で、山岡鉄舟の墓がある全生庵の庵主が臨済宗妙心寺派の龍澤寺で修行をされた方で、坐禅部の師家が龍澤寺のご住職だった関係で、全生庵にも何回か赴いて坐禅させていただき、山岡鉄舟の墓にも参らせていただいたが、いつ行っても墓参りの方々が絶えることはなく、その武士としての至誠の生き方に感銘している人たちは未だに多い。
日露戦争の日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を打ち破った、東郷平八郎海軍元帥は、「天は正義に与し 神は至誠に感ず」を座右の銘の一つとして、よく揮毫にも残したが、戦いの中で人を欺くことが当たり前とされる中でも、誠を尽くそうとする武士の価値観を体現する難しさ、戦いに勝つ一方で、誠意を尽くす武士の魂も相まって物事がいい方向に進んでいくことを、大きな戦争を勝利に導いた東郷元帥も感じていたのかもしれない。
参考文献
新渡戸稲造 須知徳平訳 『武士道』 講談社
勝部真長 『山岡鉄舟の武士道』 角川ソフィア文庫
大森曹玄 『山岡鉄舟』 春秋社
(令和5年3月11日)
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