髙橋史朗123 – 行動遺伝学が解明した「遺伝の真実」に学ぶ
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授
麗澤大学 特別教授
●遺伝と環境――「行動遺伝学」「進化教育学」の視点から
能力や性格への遺伝の影響を明らかにする学問である「行動遺伝学」や「進化教育学」の視点から、教育を遺伝や進化という生命科学の目で科学的に見直した慶應義塾大学の安藤寿康教授の著書『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書)、『遺伝子の不都合な真実――すべての能力は遺伝である』(ちくま新書)、『なぜヒトは学ぶのか――教育を生物学的に考える』(講談社現代新書)、『教育の起源を探る――進化と文化の視点から』(ちとせプレス)は必読文献である。
著者の結論は以下の如くである。
ひとは幸福になるようにデザインされているわけではないけれど、現実には幸福を感じて生きている人もたくさんいる。それは遺伝的才能を生かす道がこの社会にひそんでいるから(『日本人の9割が知らない遺伝の真実』「はじめに」参照)>
著者は元々、強固な環境論者で、「才能は生まれつきではない」「人は環境の子なり」をスローガンにしたヴァイオリンの早期教育、スズキメソッドの創始者鈴木鎮一氏の思想に深く傾倒し、教育学の卒業論文のテーマに選んだ。
環境によって人間はつくられるということを科学的に明らかにするために大学院に進学し、遺伝と環境の問題について、双生児や養子の膨大なデータに基づいて分析を行う「行動遺伝学」と出会った。
遺伝と環境の影響を分離して実証的にその大きさを示すことのできる行動遺伝学は、この問題にイデオロギーや先入観なしに科学的な態度で臨むことのできる理論と方法を持っていた。
●行動遺伝学の結論
この方法ならば、遺伝によらない能力、環境によって決まる能力があることを証明できると考え、行動遺伝学の研究論文を読み進めていくうち、人間のほとんどすべての心理的側面には遺伝が無視することのできない大きな影響を与えていることが分かった。自分で双生児のデータを集めて調べてみても同じ結論に至ったという。
安藤教授は前掲書第1章を次のように締めくくっている。
最近、橘玲氏の書かれた『言ってはいけない 残酷すぎる真実』という本がベストセラーになりました。行動遺伝学と進化心理学の知見をふまえて、『ベルカーブ』と同じように現代社会の格差や不平等の根底に生物学的な根拠があることを、『ベルカーブ』ほど分厚くない新書の形でわかりやすく描いています。
この本を読んだ人は少なからず、遺伝の影響の大きさを知ってショックを受けているようです。知り合いにもこれを読んだ人たちがたくさんいました。その中で私の書いた本もそのエビデンスを示しているものとして紹介されていましたので、「あれって本当なんですか、やばくないですか」と心配してくれました。
その心配には、このように答えねばなりません。「本当です。そのことを知らないと、もっとやばいです」
橘さんがおっしゃりたいのも同じことだと思います。「かけっこ王国」のお話を読んだ読者は、そのやばさをうすうす感じていることでしょう。
行動遺伝学のもたらす知見とは、遺伝的な差異によって人を差別するためのものではありませんし、人の才能がすべて遺伝で決まるといっているのではありません。
私たちは、行動遺伝学が導き出した知見とどうやって付き合っていくべきなのか、本書はそれを明らかにしていきます>
●人間の性格を表す5要素「ビッグ5」と「カラープリンター理論」
1980年代にルイス・ゴールドバーグはじめ多くの研究者によって提唱された「ビッグ5」と呼ばれる、人間の性格を表す5要素は次の通りである。
⑴ Openness to experience(経験への開放性、または好奇心の強さ)
⑵ Conscientiousness(勤勉さ)
⑶ Extroversion(外向性)
⑷ Agreeableness(協調性)
⑸ Neuroticism(情緒不安定性)
略してOCEANであるが、ビッグ5以外の尺度として有名なハンス・アイゼンクの「ジャイアント3理論」にも⑶と⑸が含まれている(もう一つはPsychoticism <精神病質>)。
グレイの「行動抑制システム」「行動活性化システム」モデルによれば、すべての動物は行動を抑制してブレーキをかける仕組みと、行動を活性化してアクセルを入れる仕組みを備えている。前者はセロトニン、後者はドーパミンの分泌によって規定され、前述した二大性格因子、すなわち外向性と情緒不安定性と同じである。
人間の場合にはこれに加えて他の個体とどういう調整を行うかという社会性や社交性が加わり、この3つの要素を組み合わせて性格をつくり出すことが可能であり、それはあたかもシアン、マゼンタ、イエローの3色を混ぜ合わせればどんな色でもつくり出せるインクジェットプリンターのようなものである。
安藤教授はこれを「カラープリンター理論」と呼んでおり、プリンターには不可欠な「ブラック」が一般知能に当たるとしている。
●双生児研究によって明らかになったこと
安藤教授らが18年間、1万組を超える双生児研究プロジェクトの調査研究を行った結果、IQの相関は一卵性双生児で0.73、二卵性双生児で0.46の相関で、青年期のIQの個人差は、遺伝54%、共有環境19%、非共有環境27%であったという。
「共有環境」とは、基本的には家庭環境や親の影響などによって家族のメンバーを「似させようとする環境」のことである。逆に家族のメンバーを「異ならせようとする環境」のことを「非共有環境」という。これが遺伝も共有環境も同じ一卵性双生児でも似ていない理由である。
指紋の線の数では、ほとんどが「遺伝」によって説明され、わずかな「非共有環境」の影響によって微妙な差異が生じている。体重の場合も、直感に反して「共有環境」の影響は全くなく、「遺伝」と「非共有環境」の影響で説明される。
知能指数には、きょうだいを似させる要因に「遺伝」だけでなく「共有環境」の影響があるが、指紋や体重には共有環境の影響はないと考えられる。
音楽や執筆、数学、スポーツの才能に関しては、遺伝の寄与率が80%を超えており、外国語の才能についてのみ共有環境の影響がみられる。これは、家庭で共通に話されている言語が影響を与えているものと思われる。
図のように精神疾患や発達障害についても遺伝の影響が強く、統合失調症や自閉症、ADHDについては80%程度が遺伝によって説明できるという。さらに、鬱傾向や喫煙、マリファナ、アルコール中毒などの「物質依存」、反社会性、不倫、ギャンブルなどの「問題行動」への遺伝の寄与率の双生児相関も明らかになっている。
この行動遺伝学がもたらした科学的知見を一体私たちはどのように捉え解釈していけばよいのであろうか。
近年の分子遺伝学の進歩によって、環境と遺伝がどのように作用しているかが分子レベルで分析できるようになりつつある。同じ遺伝情報を持ちながら、細胞や固体のレベルで遺伝子の発現の仕方が異なり違う形質が現れる「エピジェネティクス」が鍵となる。
母親が妊娠期に極端に栄養の乏しい環境やストレスの強い環境にさらされると、胎児の遺伝子にエピジェネティックな変化が生じ、肥満や神経質さを増すという現象がネズミや人間でも報告されている。ある遺伝的な性質が特定の環境を媒介として発現する仕組みが、分子レベルで解明されたことは非常に画期的である。
●収入と遺伝の関係、知能に及ぼす遺伝と環境の影響は?
また、アメリカの行動遺伝学者ロウらの研究によれば、収入の42%が遺伝、8%が共有環境、50%が非共有環境の影響であるという。さらに、スウェーデンのビョルクルンドらは、収入への遺伝の影響は20~30%、残りは非共有環境の影響であると算出した。
しかし、山形・中室らによる日本の20歳から60歳までの1000組を超す大規模調査によれば、収入に及ぼす遺伝の影響は約30%であった。ところが、年齢を考慮すると、就職し始める20歳位の時は遺伝(20%程度)よりも共有環境(70%程度)がはるかに大きく収入の個人差に影響していることが明らかになった。
ところが、以下の図のように年齢が上がるにつれて、共有環境の影響はどんどん小さくなり、代わりに遺伝の影響が大きくなって、最も働き盛りになる45歳位が遺伝のピーク(50%程度)になり、共有環境の影響はほぼゼロになる。
では、知能に及ぼす遺伝と環境の影響はどうか。児童期、青年期、成人期に分けると、収入と同様に、年齢が上がるに従って遺伝の影響が大きくなっていくことがわかる。つまり、人間は年齢を重ねて様々な環境にさらされるうちに、遺伝的な素質が引き出されて、本来の自分自身になっていくことを行動遺伝学は示唆している。
●「社会のキッザニア化」提案――能力制への転換と能力検定テストの創設
そこで以上のような研究結果を踏まえて、安藤教授は次のような「社会のキッザニア化」を提案している。
この「社会のキッザニア化」を実現するための教育制度改革の課題として、「学年制から能力制への転換」「能力検定テストの創設」を訴えている。様々な領域の知識の習得度を科学的に測定できる測定法を開発し、年齢に関わりなく、どの程度の水準までその人が習得しているかを教育の程度と見做す「検定テスト」に根差した教育制度改革である。
大事なことはテストの生態学的妥当性と十全性であるという。生態学的妥当性とは、そのテストのために学習することが、ただのテストのためのテスト勉強ではなく、そのテストのために学んだ知識や技能が、生の社会や人生の中で本当に使われるようなテストであることである。
あるいはその領域の知識をきちんと使って生きている人から見て、そのテストはその知識の理解や運用がリアリティがあるようなテストだということである。
また十全性とは、そのテストで満点を取れれば、その文化領域について、みんなが共有すべき必要にしてとりあえず人並みに十分な知識が獲得されていることを保証できているということである。
●ワーキングメモリを3つ持った人間の特性
安藤教授によれば、同時に記憶できる概念の数の脳機能であるワーキングメモリがチンパンジーには1つしかなかったが、ネアンデルタール人には2つあったと推測され、死者を埋葬するという文化、霊魂のような概念を想定することができた。
人間は目の前の石とその完成形に加えて、これを応用したらどうなるかということまで考えることができた。これは人間にはワーキングメモリが3つ以上あるからである。それ故に、人間は新しい概念を次々に思いつくことができるようになり、さらに自分の知識を他者に教える教育が可能になったのである。
最後に、最終章「遺伝を受け入れた社会」の総括的な文章を引用して、本稿を締めくくりたい。
(令和5年3月4/日)
※髙橋史朗教授の書籍
『WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と「歴史戦」』
『日本文化と感性教育――歴史教科書問題の本質』
『家庭で教えること 学校で学ぶこと』
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