高橋 史朗

髙橋史朗120 -「日本的霊性」とは何か――道徳の根底を探る

髙橋史朗

モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授

麗澤大学 特別教授

 

 

●鈴木大拙『日本的霊性』と『金剛経』の「即非の論理」

 日本的ウェルビーイングについて考察するにあたって、鈴木大拙著『日本的霊性』(岩波文庫)は必読文献である。鈴木大拙は大乗仏教の根本原理を「即非の論理」と呼んでいるが、『金剛経』に、「仏の般若波羅蜜と説くは即ち般若波羅蜜に非ず、是れを般若波羅蜜と名づく」とあるのが、「即非の論理」の由来である。

 『金剛経』には、これと似た命題がいくつかある。「世界は即ち世界に非ず、是れ世界なり」「微塵は即ち微塵に非ず、是れを微塵と名づく」などである。これを一般的な形式に引き直すと、「甲は甲であると言うのは、――甲は甲でない、故に甲である」という方式になり、もっと簡単にすれば、「甲は甲でない、だから甲だ」という命題ができる。これが仏教的思惟の根本である「即非の論理」である。

 「即非の論理」は、肯定されている概念をいったん否定し、否定を経て肯定に戻った時に初めて、その概念に対応するものの真実が捉えられるというのである。分別即ち主観と客観との対立をすべて一掃すると、ありのままが現出する、これが「即非の論理」の意味である。

 この主客の区別のない「在りのままに在る」ものを直観する智慧を仏教では「般若の智慧」と呼んでいる。従って、「即非の論理」は「般若の論理」ともいわれる。

 「死は死でない」とわかれば、死を恐れる必要はない。こうして否定を経た上での「死」は、「在りのままに在る」のであるから、もはや恐怖という主観的な情意の対象とならないのである。このように物の真実を捉える方法が、「即非の論理」なのである。

 しかし、この「即非の論理」は論証的思惟によって認識されるのではなくて、「霊性的自覚」という体験においてのみ得られるのである。人間は経験する世界と経験を超えた世界即ち霊性の世界とに同時に属している存在である。

 

 

●「霊性」とは知情意の「心源」即ち心の本体

 心の働きは一般的には知・情・意に三分されるが、鈴木大拙は情を感性と情性とに区分する。水は冷たい、火は熱いと感じる働きが感性で、水はすがすがしい、花は美しいと感じるのが情性の働きだという。

 知情意を働かせる原理のような「心源」即ち心の本体が「霊性」に他ならない。主観と客観が一体となったものが「霊性的自覚」であり、この「霊性的自覚」は分別の否定によってのみ可能である。

 「霊性的自覚」は仏教用語では、正覚の成就、成仏、見性、悟り、涅槃を得る、浄土往生、信心決定等の語によって表現されるが、いずれも異語同義である。霊性は人間における究極の実在であり、全人格の統一原理である。

 霊性は普遍的であるが、各民族はそれぞれ特殊な民族性を具えていて、物の感じ方や受取り方、また心の動き方や表現の仕方も異なる。このような民族性は歴史的、伝統的な思想や生活、地理的な環境によって、異なる仕方で形成される。日本民族によって自覚された霊性を「日本的霊性」と呼ぶのである。水は方円の器に従って形を変ずるが、水であることに変わりはない。その意味での「日本的」は世界的でもあるといえる。

 鈴木大拙の言う「即非の論理」を西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と表現したが、Aと非Aという絶対に矛盾するものの自己同一を示すのに、「即」という文字を用いた感性には驚嘆せずにはおれない。

 自同律、矛盾率で他を排除し、他と対立するのではなく、いかにAと非Aが調和共存していくかこそが求められている。これからの教育に求められているのは、まさにこの新しい思考のパラダイムなのである。Aが非Aを敵視するのではなく、Aは非Aによって、非AはAによって存在しているという根源的な関係に深く「気づく」ことが大切なのである。

 言い換えれば、相性の合わない人は自分が持っていないものを最も持っている人であるから、虚心坦懐に受け止めて感謝すれば、最も敵対的であった人が味方に変貌するということで、私自身にも身に覚えがある。こういう新しいパラダイム、プラス思考に転換することによってはじめて、従来の不毛な対立を打ち破ることができるのである。

 

 

●鈴木大拙・西田幾多郎・廣池千九郎に共通するもの

 自同律とは、AはAであるということであり、AはAであるから非Aではない。このAは非Aでないことを矛盾律というのである。従って、矛盾律は自同律が反省を経た必然的展開に他ならない。

 古来、人間の持つ認識能力には、インテレクツス(高次の直観的認識)とラチオ(低次の分析的、概念的認識)の2種類があるとされていたが、近代になると高次の直観的認識は否定され、ラチオの認識能力だけが承認されるようになり、合理主義全盛の時代が到来した。ラチオは、論理学の自同律または矛盾律を原理とする認識といえる。

 現代の危機や対立の根源にあるのは、この自同律、矛盾律を原理とする悟性のみに従って行動してきた近代合理主義である。これに対して、Aが存在するのは非Aが存在するからで、非Aが存在するのはAが存在するからである、というように相互依存関係においてとらえる原理を「相互律」という。

 これが包括的なホロン概念であり、部分と全体、生と死、善と悪、有と無等の関係を単純な二分法論理に立脚した対立図式で捉えるのではなく、般若系の仏教思想の論理で表現すれば、「即非的自己同一」とでもいうべき共存関係として捉えるのである。

 ホーリズムの提唱者であるスマッツは『ホーリズムと進化』(髙橋共訳、玉川大学出版部)において、生命体の各部分はその部分の中に全体意志が貫かれており、全体は部分の総和よりも存在価値があるという。

 スマッツは全体を意味するホールを常に複数形(wholes)で使っている点に注目する必要がある。それは、個の多元性を認め、一つ一つの全体がすべて異なる独自性を持っていることを示しており、部分の総和としてのtotalの全体とは異なるwholesがheal(癒し)やholy(聖なるもの)とつながっていることを示唆している。

 スマッツの言う「全体」という語は、日常的な使用においては気付かれていない豊かな意味を含むものであり、同書で述べられている「数々の全体」という概念は、宇宙の性格を基礎づけるものといえる。「ホーリズム」というのは、諸々の全体を創出していく生命の進化の内に働く動因であり、宇宙の根本原理に他ならない。

 「ホリスティック」という言葉は「ホーリズム」の形容詞形で、もともと東洋に根付いていた、包括的な考え方に近いものといえる。鈴木大拙の「即非の論理」、西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」、『中庸』の「天地の化育に賛ずる」、廣池千九郎の「天功を助く」の道徳科学にも共通するものがあるといえる。

 

 

●西田幾多郎「自己の根源に返る自覚が道徳の根底となる立場」

 西田幾多郎は鈴木大拙に次のような手紙(昭和20年3月11日付)を送っている。

 

「従来の対象論理の見方では宗教というものは考えられず、私の矛盾的自己同一の論理すなわち即非の論理でなければならないということを明らかにしたいと思うのです。私は即非の般若的立場から人というものすなわち人格を出したいと思うのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいと思うのです」

 西田幾多郎の最後の大作「場所的論理と宗教的世界観」(『哲学論文集第7』所収)は西田哲学の最後の仕上げとみることができるが、この論文の中で彼は次のように指摘している。

 

「われわれの自己はただ死によってのみ逆対応的に神に接する」「神と人との対立はどこまでも逆対応的である。故にわれわれの宗教心というのは、われわれの自己から起こるのではなくして、神または仏の呼び声である」「どこまでも矛盾的自己同一的に、歴史的世界の個別的自己限定の極限において、全体的一の極限に対するのである」「この故にわれわれは自己否定的に、逆対応的に、絶対的一者に接する。死即生、生即死的に、永遠の生命に入るということができる」

 西田は「現実は根源を持つ」と考え、この現実の根源(「根源的場所」)が生死の場所と捉え、次のように指摘している。

 

「仏教において観ずるということは、対象的に神仏を観ることでなくして、自己の根源を照らすこと,省みることである」(『哲学論文集第7』)
「自覚において、われわれは単に自己の内に入るのではない。自己の根源に返るのである。しかしてそれは世界成立の根源に入ることに外ならない。自己が始まる時、世界が始まる。世界が始まる時、自己が始まる。宗教の立場は自覚の立場である。・・・それは知識や道徳の根底となる立場である」(『哲学論文集第6』)

 「逆対応の論理」とは、宗教体験の論理にほかならず、人間は自己が徹底的に否定されればされるほど自己の根源に還り、自己の真源に徹し、自己が徹底的に死ぬことが、逆に真に生きることにつながるのである。この点に関連して、西田幾多郎は次のように指摘している。

 

「われわれの自己は、どこまでも自己の底に自己を超えたものにおいて自己をもつ。自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを“見性”という。禅宗にて”公案“というものは、これを会得せしめる手段にほかならぬ」「われわれは自己否定的に、逆対応的に、いつも絶対的一者に接している」「われわれの自己は(A即)どこまでも自己を超えたもの(非A)において自己を持つ。自己否定において自己自身を肯定する。かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを見性という」「かくの如くにして、般若即非の世界から人間世界というものが出てくるのである」(秋月龍珉『鈴木禅学と西田哲学』春秋社)

 

 

●法然と親鸞が自覚した「日本的霊性」

 「日本的霊性」が鮮やかに自覚されたのは、禅宗と浄土系思想においてであった。鈴木大拙によれば、日本的霊性が時間的・歴史的に発展して現実化するに至ったのは鎌倉時代で、この時代に初めて純粋な相(すがた)をとって日本的霊性が発現したという。

 日本的霊性は原始時代から奈良朝、平安朝を経て次第にその胎動を強め、日本民族の本具の霊性という因が外来の仏教を縁として、この因縁の和合と時節の到来とが相まって、日本的霊性の自覚が鎌倉時代に成就したのである。

 渡来した仏教が鎌倉時代の浄土宗思想において、その日本化を完成したという説は誤解であり、日本民族が本来有していた霊性の主体性のもとに仏教に相対したのであって、受動的に外来の仏教を輸入したのではない。

 宗教意識は、強い精神的鍛練を経て、人間の知情意の心源即ち心の本体の究極の実在から、内的必然性をもって発動する精神そのものである。鈴木大拙『日本的霊性』は、法然とその弟子親鸞が従来の浄土系思想に画期的な転回を与えた意義を強調している。

 法然においてまず自覚され、それが親鸞に以心伝心された絶対的他力思想の本質は、煩悩の多い極悪深重、地獄必定の人間が、一切の煩悩、一切の善悪をそのままにして、弥陀の本願に全身心をゆだねるということである。

 そして人間であるところの念仏者と阿弥陀仏という矛盾対立が「南無阿弥陀仏」の名号、即ち正覚の体験そのものの上で解消するところに、「即非の論理」を観ることができるのである。

 鈴木大拙は浄土思想の至極を、親鸞の言葉即ち、弥陀の本願を「よくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなり」(『歎異抄』)に表現されている一人の思想に看守している。宗教は有限な人間が、自己の存在の根底は無限の広がりを持つものであると自覚するところに成立する。

 個己が有限の自己を超えて、無限の超個に相応したという直観が霊性的自覚に他ならない。「即非の論理」はここでも成立するのである。筆者は平成26年から日本仏教教育学会の常任理事として学会発表もしてきたが、今後は高齢者のスピリチュアル・ウェルビーイングと「日本的霊性」の視点から研究を深めていきたい。

 

(令和5年2月24日)

 

※髙橋史朗教授の書籍
WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と「歴史戦」
日本文化と感性教育――歴史教科書問題の本質
家庭で教えること 学校で学ぶこと
親学のすすめ――胎児・乳幼児期の心の教育
続・親学のすすめ――児童・思春期の心の教育
絶賛発売中!

 

 

※道徳サロンでは、ご投稿を募集中! 

道徳サロンへのご投稿フォーム

Related Article

Category

  • 言論人コーナー
  • 西岡 力
  • 髙橋 史朗
  • 西 鋭夫
  • 八木 秀次
  • 山岡 鉄秀
  • 菅野 倖信
  • 水野 次郎
  • 新田 均
  • 川上 和久
  • 生き方・人間関係
  • 職場・仕事
  • 学校・学習
  • 家庭・家族
  • 自然・環境
  • エッセイ
  • 社会貢献

ページトップへ