髙橋史朗119 – 高齢者のスピリチュアル・ウェルビーイングーー老いと死の受容
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授
麗澤大学 特別教授
●いのちの永遠性を実感する「至高体験」
ウェルビーイングの最も重要な柱であるスピリチュアル・ウェルビーイングを実現するために必要な構成領域は、拙稿連載118に掲載した表に整理されたWHOの健康概念の要素であるスピリチュアリティに含まれている4領域と18の下位領域であると解釈できるが、高齢期に入り、身体機能や認知機能の低下が起こり、認知症への不安や定年退職等によって生きる意欲が低下し、うつ状態になる老人が増えている。
また、配偶者などの身近な人との死別により、孤独感や生き甲斐の喪失をもたらし、このような複合的、連鎖的な要因により複合喪失を体験し、人生やアイデンティティの危機に直面する高齢者が増えている。
東京女子大学の竹田恵子准教授らの「高齢者のスピリチュアリティ健康尺度」の研究によれば、同尺度は「生きる意味・目的」「死と死にゆくことへの態度」「自己超越」「他者との調和」「よりどころ」「自然との調和」の6因子から構成されることが明らかになった
また、川崎医療大学の岡本宣雄教授によれば、近年、高齢者の主体性を見直し、自らの力で高齢期の様々な変化や喪失に適切に対処しながら、充実した高齢期を過ごすサクセスフル・エイジング(successful aging)という考え方が提起されている。
老化のポジティブな側面を重視するRowe JWと Kahn RLが提唱したサクセスフル・エイジングは、壮年期までの社会活動をできるだけ維持することを幸福に老いるための条件とし、疾病や障害がなく、心身機能が良好であり、さらに生活への積極的関与があることを構成要素とした概念である。
しかし、この概念には主観的幸福感が含まれていないため、Crowther MRらはポジティブ・スピリチュアリティを加えるべきであると提言し、その根拠として、統計学的な結果を踏まえ、スピリチュアリティは、主観的幸福感の改善、憂鬱や苦悩の低減、罹患率の低下や平均余命の増加と関連することなどを列挙した。
このようにスピリチュアル・ウェルビーイングは、サクセスフル・ウェルビーイングで表現される、老化のポジティブな側面と老いの肯定的な要素を含んだ概念である。第3勢力の人間性心理学を提唱したマスローは、自己実現を達成している人の経験を「至高体験」と命名した。
マスローは人生における深い悟りや自然との出会い、出産時の感動などの恍惚感を味わった人たちを対象とした調査を実施し、このような体験を一般的な特徴として明らかにし、人は至上の幸福を実感した時に、時空の超越感、自我の超越に、様々な葛藤の解消、宗教的な啓示といった体験を持つことを明らかにした。
ここで体験される「いのちの永遠性」を実感する「至高体験」は、自己の生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求などの欲求を充足する目的なものから、普遍的な価値あるものへの関心に志向させ、さらに自己犠牲的な利他的な生を価値あるものとする。
このような時空の超越感や自我の超越、「いのちの永遠性」を実感する感性は、スピリチュアリティに含まれる超越性の特質と合致する。このような高齢者が「至高体験」として実感する幸福感や内的な満足感は、高齢者のスピリチュアル・ウェルビーイングにおいて重要である。
●「老年的超越」がもたらす3つの存在論の変化
このスピリチュアル・ウェルビーイングに類似した概念に、スウェーデンのTornstam Lが提唱する老年的超越(gerotranscendence)の理論がある。彼は老年的超越を高齢期における価値観や心理・行動の変化として理解し、老年的超越について「物質的、合理的に思い描くものから宇宙的な、超越的なものへのメタパースペクティブへの移行である。それは通常に生活の満足が増し加わることにより起こる」と説明している。
この移行は3つの高齢期に関連する存在論的な3つの変化、すなわち、①生命の宇宙的な次元(宇宙の一部である感覚)、②自己の認識の次元(自己中心性の減少や自己超越等による内的一貫性)、③社会と個人との相互関係の意識の次元(積極的な孤独など)を含んでいる。
これらの老年的超越がもたらす3つの存在論の変化の各次元を要約すると、以下の如くである。
⑴ 宇宙的な次元(宇宙との一体的な感覚)
高齢者が実際には、生きる空間の感覚は決まっていくが、老年的超越に達する人は、自分がより大きい宇宙の一部であると感じ始める。全体的な視野でのこの移行は宇宙とともにあり、その関係が継続するという感覚が増し加わることより、人の差し迫る身体的な死との関連を減少させる。
⑵ 自己認識の次元
老年的超越は、生命の宇宙論的な次元は生命と世界のより広い見方と関係し、自己認識の次元は人がいかに自分自身と自分を取り巻く世界を認識しているかに関係している。
⑶ 社会と個人との相互関係の次元
老年的超越は、他者との相互関係の感覚が増し加わることに関係している。老年的超越に達する人は、作り上げてきた家族や友人、他者とのつながりを背景に表面的な関心が減少し、その意味を再評価する。このことは過去や未来とのつながりの意識を向上させ、人を他者とのより範囲の広い世界へと開き、他者と世界への応答を生み出す。同時にその開放性はより選択的な生き方へと導き、一人でいることを望ませる。
●高齢者に関するホワイトハウス会議と全米の委員会
このスピリチュアル・ウェルビーイングの概念とその研究は、1971年の高齢者に関するホワイトハウス会議でスピリチュアル・ウェルビーイング部門が設けられて初めて紹介されたものである。
同会議は、高齢者を理解し支援の際、高齢者のウェルビーイングの把握が重要であることを公的に提起してこの研究を発展させ、スピリチュアル・ウェルビーイングが本来的に人間に備わっている超自然的かつ非物質的な領域であり、人格を構成する中核として、人の根源的な関心や価値や哲学、信条に関連し、判断や行動を起こす特質があることを提示した。
同会議で取り上げられた高齢者のウェルビーイングについてさらに専門的に議論するために翌年に「高齢者に関する全米宗教間相互協力委員会」が組織された。
同委員会はスピリチュアル・ウェルビーイングについて、次のように定義している。
同委員会によれば、スピリチュアル・ウェルビーイングは、神、自己、コミュニティ、環境との関係で捉えた人生の肯定であり、これは単に人生の一側面ではなく、むしろ人生全体に浸透して意味を与え、分裂や孤立とは対照的な全体性を指し示すものである。
すなわち、スピリチュアル・ウェルビーイングは、健康の3側面である身体的、心理的、社会的な健康の側面と同等ではなく、どのような否定的状況にもかかわらず、人生を大肯定する。それは現実を無視した楽観主義ではなく、いかなる状況においても人生を肯定していくことが、スピリチュアル・ウェルビーイングのダイナミズムであることを表現している。
●「調和」と「つながり」が高齢者のウェルビーイングの特徴
Hungelmann Jらは、病院、自己住居、高齢者ハウジングの65歳以上の高齢者31名を対象に150時間に及ぶインタビュー調査を行い、スピリチュアル・ウェルビーイングの行為や特質が「関係」と「時間」で構成され、この2つのカテゴリー項目に基づいて、「究極的な他者」「他者/自然」「自己」「過去」「現在」「未来」の項目に分類できることを明らかにした(表a参照)。
さらに、これらの2つの元になるカテゴリーと6つのコアカテゴリーの関係性に注目し、これらを構造的に捉えて分析した結果、全てのカテゴリーの固有性を統合し、集約する2つの主要なテーマは「調和」と「つながり」であることが判明した。
「世界幸福度」調査に欠落している視点は、この「調和」と「つながり」の視点である。この「日本的幸福感」の特徴でもあるスピリチュアル・ウェルビーイングの視点を「世界幸福度」調査の新たな測定尺度として導入する必要がある。
また、マッキンリー E.は高齢者のスピリチュアルなテーマと課題について研究を行い、65歳以上のナーシングルームの入居者24名にインタビュー調査を実施し、その結果を分析して、高齢者のスピリチュアルなテーマとして、神、他者、宗教的な信念を含む「人生の究極的な意味」と「人生の意味への応答」を中心に据え、それらに関連する4つのテーマ(対となる概念)、「自己充足感/脆弱さ」「最終的な意味に向けた賢明さ/暫定なるもの」「関係/孤独」「希望/恐れ」とそれぞれのテーマに応じた計6つの課題を提示した(表b参照)。
●「老いと死」の人間形成論的考察
高齢者のウェルビーイングを考える上で、「老いと死」に目を背けず直視することが大切である。生きる意味を自覚し、生の充実を実現するために、死自体の意味や大きな役割につて学ぶ必要がある。この点について上智大学のアルフォンス・デーケン教授は、「死の準備教育」に関する私とのインタビューで力説したが、文部省の科学研究費の助成を得て7年間の共同研究の成果を集大成した岡田渥美編『老いと死――人間形成論的考察』(玉川大学出版部)は必読文献である。
同共同研究は、人間の生を身体的、社会的、人格的、宗教的な存在諸層から全体的、統合的に捉えるとともに、出生から死に至るまでのライフサイクル全体から把握すること、しかも、個体としての一回的・特殊的・個性的な人生を、世代連鎖の一環と見做すなど、要するに個を超えた「より大いなる生命の流れ」の中で、「より普遍的な生」に参与するものとして位置づけた。
同書によれば、「老いと死」に直面した人々は、自己の生を有意味なものとして包摂してくれる訪越的全体を切実に求め、それとの関わりを深く自覚することによって、自らの人生を価値ある完結体として捉え直そうとする。
「老いと死」の自覚は、超越ないし包越者への希求を深く動機づける。そしてその希求は、老人の生の根底で常に強靭に働き、自己の存在意義の形而上学的な探求心を内奥から深く動機づけ続ける。
「老いと死の受容」は、各人の生の存在の基軸そのものの全面的転換が迫られるという意味で、既存の存在様式から解脱する「死の飛躍」(ペスタロッチ)を余儀なくされるものであり、ニーチェ流に言えば、「病(老・死)者の光学」を媒介することによって、「健康者(若者)の光学」を自覚的に縮小させ、批判的に相対化する道を拓くものといえる。
「老いと死」を、人間存在並びに人間形成の本質的・必然的契機として原理的に取り込むことによって、人間形成理論を再構築することを試みた同共同研究の考察は、高齢者のウェルビーイングについて考える上で、大きなヒントと深い示唆を与えてくれる。
最後に、鈴木大拙が世界の未来に向けた宝と高く評価した「日本的霊性」が「日本的ウェルビーイング」の中核であるが、これについては稿を改めたい。
(令和5年2月22日)
※髙橋史朗教授の書籍
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