高橋 史朗

髙橋史朗117 – 上皇后陛下の御歌と講演から「国のみ柱」と「愛と犠牲」について考える

髙橋史朗

モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授

麗澤大学 特別教授

 

 

●天皇はいかにあるべきか――「新日本建設に関する詔書」の第一の目的

 上皇后陛下は平成13年、明治神宮御鎮座80年に当たり、「外国の風招きつつ国柱太しくあれと守り給ひき」と詠まれた。明治維新で西洋文明を取り入れながら、明治天皇がわが国の柱を太くするように導き守られた点に注目されているが、日本の「国柱」とは一体何か。

 天皇陛下のご学友である小山泰生氏は『新天皇と日本人』(海竜社)において、「皇太子殿下と深く語り合った最初は、中学三年生の時」で、「皇太子殿下は、父・今上陛下からはもちろん、祖父・昭和天皇から聞かされた、『天皇はいかにあるべきか』という問いとそれに対する思索を真剣に話してくださった」として、次のように述べている。

 

<天皇のあるべき姿を考えるとき、昭和天皇が、日本国憲法発布以前の終戦直後、昭和21年1月1日に出された「新日本建設に関する詔書」を見直す必要があると、深く理解することができました。「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、かつ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、ひいては世界を支配すべき運命を有するとの架空なる観念に基づくものにあらず」というこの詔書は、長い間「天皇陛下の人間宣言」とされてきましたが、昭和天皇は、じつは、そう呼ばれることに違和感をもっていらっしゃいました。
 その違和感を吐露なさったのが、昭和52年8月23日の那須御用邸での会見でした。昭和天皇は、この詔書の最初に、明治天皇が出した「五箇条の御誓文」を引用した、その理由を説明していらっしゃいます。
 「五箇条の御誓文を引用することが、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。…民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要がありました。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないために、あの宣言を考えたのです」
 私は、戦後、日本国民が、いわゆる自虐史観に支配され、日本人としての誇りを失っているかのように思えてなりません。ですから、昭和天皇が詔書にかけた思いを述べたこの会見を思い出すべきだと、長年思い続けてきました。皇太子殿下もまた同じ思いなのだと思うのです。>

 「新日本建設に関する詔書」の成立過程については、米オレゴン大学所蔵のウッダード文書と、学習院大学所蔵の山梨勝之進と浅野長光文書の新資料の実証的研究(拙著『WGIPと「歴史戦」』(モラロジー研究所、参照)によってほぼ解明されたが、「叡旨公明正大、又何をか加えん」「すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し…新日本を建設すべし」とのお言葉が、五箇条の御誓文の後に述べられている点に注目する必要がある。

 

 

●五箇条の御誓文・17条憲法・橿原建都の詔に通底する国柱の精神

 ちなみに、五箇条の御誓文には次のように書かれている。

 

<一 広く会議を興し万機公論に決すべし
 一 上下心を一にして盛んに経綸(国家の秩序を整え治めること)を行うべし
 一 官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
 一 旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし
 一 知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
 我が国未曾有の変革を為さんとし朕身を以て衆に先んじ天地神明に誓ひ大にこの国是を定め万民保全の道を立てんとす衆亦此旨趣に基づき協力努力せよ>

 この五箇条の御誓文と「新日本建設に関する詔書」に明記されている「公議」と民意を重視する精神こそが歴代天皇に受け継がれてきた「国柱」の精神であり、この「国柱」の精神は「王政復古の大号令」では、群臣を率いて東征を行い、困難を克服された神武天皇の「諸事神武創業の始に原き」「至当の公議を竭(つく)し」と表現され、神武建国の精神が明治維新の原点となった。

 ちなみに、神武天皇橿原建都の詔には、「民に利有らば、何(いずく)にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」と書かれており、この建国の精神は聖徳太子の17条憲法にも通底し、「和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを旨とせよ」「事は独り断ずべからず」と書かれている。

 

 

●「国生み神話」は「南京虐殺」の原点?

 この日本の「国柱」である歴代天皇に通底する伝統精神を、WGIPの陣頭指揮を執ったブラッドフォード・スミスは日本精神の3本柱の一つである「皇道」(他の二つは神道と武士道)と捉え、「国生み神話」に見られる残虐性が「南京虐殺」の原点であるというトンデモ説を1942年に発表した論文「日本精神」で主張した。詳しくは、拙著『WGIPと「歴史戦」』を参照してほしい。

 この国生み神話の象徴的意味について、「日本の神話」伝承館の出雲井晶館長は次のように解説している。

 

<イザナミは火の神カグツチを生んだ際に火傷死し、イザナミが怒って切り殺し、この剣からしたたり落ちた血から神々が生まれた…イザナギの神が黄泉の国から帰り、川で身(穢れ)を清めた時に「天照大神」が生まれ、天照大神が天孫ニニギノミコト(ひ孫が神武天皇)に、「これを大切にして日本国を治めるように」と「三種の神器」を授けた。・・・
 イザナギの神のイザナミの神への別れの言葉「私たちは国造りに励みましたが、目に見える物を作ることばかりに夢中になりすぎて、あなたも死なせてしまいました。しかし、黄泉の国に来て、魂は生き通しであることを知りました。すべての根源は天之御中主神にあり、「ありがとうの心を取り戻した」>

 

 

●「トイレット・トレーニング」が「伝統的軍国主義」の原因というトンデモ説

 WGIPの攻撃目標は日本精神の「古くて危険な侵略的性質の型」すなわち「本性に根差す伝統的軍国主義」に「狙いを定めていた」が、『アメリカの鏡・日本』の著者・ヘレン・ミアーズは、「私たちは日本人の『本性に根差す伝統的軍国主義』を告発したが、告発はブーメランなのだ」「私たちは神道指令で、日本の国教である国家神道を本来侵略的であるとして禁止した。神道を『野蛮な好戦的宗教』として裁こうとしても、日本が近代までに神道を外国侵略のダイナミックな先兵に使った例は、一つも見つけられないであろう、むしろ、日本人は西洋人から宗教を帝国主義の手段として使う見事な手本を見せてもらったのである」と指摘している。

 ルース・ベネディクト『菊と刀』の第1章「研究課題・日本」には、「日本軍と日本本土に向けたプロパガンダにおいて、私たちはどのようなことを言えば、アメリカ人の生命を救い、最後の一人まで徹底抗戦するという日本人の決意をくじくことができるだろうか」と書かれていた。

 また、第3章には、日本の「有史時代を一貫する生活原理」は、日本人の倫理体系の根底にある天皇と家長を中心とした階層制度であり、「秩序と階層制度に対する彼らの信頼と、自由と平等に対する我々の信仰とは、まったく対極にある」「正しい憤りをもって『階層制度』と戦う」と書かれていた。

 さらに、最終章「対日占領の意義」には、「古くて危険な侵略的性質の型を打破し、新しい目標に向かわせること」と明記し、国際日本文化研究所の山折哲雄元所長が指摘するように、『菊と刀』は「アメリカ戦時情報局のための対日心理戦略の論文」で、「武士道道徳と天皇信仰にピタリと照準を合わせて」「重心を低くして、ひそかに獲物に狙いを定めていた」「文化人類学的粉飾の背後に隠された本来の意図」を見抜く必要がある。

 この「古くて危険な侵略的性質の型」は、幼児期の「トイレット・トレーニング」に基づく「病的特性」すなわち「集団的強迫神経症」に起因するというイギリスの社会人類学者で対日心理戦略研究のベネディクトの前任者であった、ジェフリー・ゴーラーの「日本人の国民性研究」に基づくものであった。

 このトンデモ説を批判した人類学者のジョン・エンブリーは、「トイレット・トレーニングへ飛躍したり、国際関係の現象へと飛躍するのは方法論的に問題があると考える者はわずかしかいない」「日本の軍国主義のルーツは関税規制と島国環境による天然資源不足にあるのであって、ゴーラーの仮説のような内面的心理的欠陥によるものではない」と指摘したが、「エンブリーは1950年、FBIによって不慮の事故を装って暗殺された」(デイビット・プライス『人類学的知性』デューク大学出版、参照)。

 

 

●上皇后陛下の基調講演と安倍元首相の死

 最後に、長文の引用になるが、上皇后陛下が平成10年の第26回国際児童図書評議会における基調講演で紹介された、以下の愛と犠牲の物語に関する深い洞察も「国柱」の伝統精神と深い関係にあると思われる。

 歌人の三井甲之は「ますらをの悲しき命積み重ね積み重ねまもる大和島根を」と詠んだが、櫻井よしこさんが『Hanada』3月号の特別寄稿「光に満ちた悲劇 安倍晋三とヤマトタケル」でこの基調講演を引用されたのは、安倍晋三元首相の死の意味を日本国の伝統的な精神の歴史の命脈の中で捉える必要があることを示唆されているのではないかと思われる。

<父のくれた古代の物語のなかで、一つ忘れられない話がありました。年代の確定出来ない、六世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建命御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は、父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかもその皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。
 途中、海が荒れ、皇子の船は航路に閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り、海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも」
 このしばらく前、建(たける)と弟橘(おとたちばな)とは、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀に会って草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、「あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ」という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。
 悲しい「いけにえ」の物語は、それまでもいくつかは知っていました。しかし、この物語の犠牲は、少し違っていました。弟橘の言動には,何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、弟橘の歌は一一私は今、それが子供向けに現代語に直されていたのか、原文のまま解説が付されていたのかを思い出すことが出来ないのですが一一あまりにも美しいものに思われました。
「いけにえ」という酷い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。
 はっきりした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして報じられた、不思議な経験であったと思います。この物語は、その美しさの故に私を深くひきつけましたが、同時に、説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。
 古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います>

 

(令和5年2月14日)

 

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