川上 和久

川上和久 – 武士と茶の湯――茶道の「四規七則」

川上和久

麗澤大学教授

 

 武士に「武士道」という「道」がついているのと同様、さまざまな伝統文化には「道」がついている。

「道」がつく武士のたしなみとしては、「剣道」「弓道」「柔道(古くは柔術)」などがあげられるが、新渡戸稲造は『武士道』の第6章「礼儀」の中で、「茶道」も特に武士道と関連が深い「道」としてあげている。

 

 

●茶の歴史と効能

「茶道」の前に、茶の歴史自体はきわめて古い。もともと、茶の原産地は諸説あり、中国・唐代(618-907)の陸羽(733-804)が書いた三巻十章からなる、茶に関する世界最古の書物である『茶経』の巻初に、「茶者南方之嘉木矢」(茶は南方の嘉木なり)と記されている。茶の木は、紀元前に中国雲南省の西南地域で初めて茶樹が発見されたという説が有力だが、インド北東部のアッサム地方、これに接する中国西南部の四川省周辺も、茶の原産地であったとされ、中国雲南省を含めたこの3つの地域は東アジアの「三日月地帯(東亜半月孤)」と呼ばれている。

 日本にお茶が持ち込まれたのは、遣唐使によってだと言われており、茶の栽培もその頃から始まっていたとされるが、広まったのは鎌倉時代の頃と言われている。臨済宗の祖である栄西禅師が中国の宋からお茶を持ち帰り、それを筑前国背振山に蒔き、栽培を開始すると共に、1211年(承元5年)に茶の効能、製造法、喫茶法を上下二巻の『喫茶養生記』として書き遺している。

『喫茶養生記』は多くの中国の文献を引用しており、当時最新の医学書であったことから、茶も、当初はその薬効を期待された飲物であったと考えられる。

 

 

●「侘び茶」の確立

 一方、室町時代になると、室町幕府の将軍や大名たちによって、「茶会」が開かれるようになった。将軍や大名たちは「会所」と呼ばれる建物を作って喫茶の場とし、多くの「唐物絵画」「墨蹟」「茶道具」などを飾り付け、鑑賞しながら別室の茶点所からたてて出された茶を飲んでいた。

 また「会所」の中では当初は板敷きの部屋で椅子に座って茶を喫していたが、後に畳が敷き詰められ、「会所飾り(座敷内の飾りのルール)」なども定まることとなる。茶は、武士のコミュニケーションの場として機能していたのである。

 それが、「武士の作法」として確立されていくのは、村田珠光むらたじゅこうの存在が大きい。

 村田珠光は1423年(応永30年)に生まれ、11歳のときに奈良称名寺の了海上人の徒弟となった。その後、一休宗純に出会う。また能阿弥の知遇も得て、能阿弥によって将軍足利義政の知遇を得たとされる。

 珠光は質素な茶室や茶道具を使用し、亭主と客人の交流を重んじる「侘び茶」を確立した人物として知られる。珠光の侘び茶は、東山文化の一環であり、物の不足を心の豊かさで補おうとする茶の湯の独自性があった。こういった茶の湯の作法が、当時の武士の心性に適合したといえよう。

 珠光は1502年(文亀2年)に没したが、この「侘び茶」は、茶人である千利休によってさらに発展することになった。千利休は1522年(大永2年)生まれ。10歳代で武野紹鴎に茶の湯を学び、青年時代から先達にまじって茶人としての才能をあらわした。1568年(永禄11年)に織田信長が上洛した頃から、信長の茶頭として津田宗及や今井宗久と共にとりたてられた。信長の没後も、豊臣秀吉の茶頭として、茶の湯の政治的利用をプロデュースし続けた。

 秀吉が正親町天皇に関白就任御礼の禁中献茶をおこなった際も、親王以下に利休が茶をたてている。天正15年には、秀吉は北野社境内において茶席数800という空前絶後の大茶会(北野大茶湯)を開くが,この演出も利休の手になるものであった。その他黄金の茶室の設計など、当時、欠かせない武士の交流の場であった茶の湯を支え、秀吉の懐刀として政治的にも弟の羽柴秀長と共に活躍した。しかし、1591年(天正19年)に、切腹を命じられ、その生涯を閉じたが、利休は村田珠光以来の侘び茶を大成し、茶会の形式・点前作法・茶道具・茶室露地・懐石などのさまざまな面で独創的な工夫をこらし、今日の茶の湯の典型を示したとされる。ここに、「茶道」が確立し、「表千家」「裏千家」「武者小路千家」などさまざまな流派に分かれてはいるが、茶道の流派は今日も続いている。

 

 

●心のリセット

 武士にとっての茶の湯を、新渡戸は、

「茶の湯の道の第一義は、心の平静と感情の明澄、立ち居振舞いの静穏であって、それは正しい思索と感情を生み出す第一の要件である。騒々しい俗世間の光景と音から遮断された、あくまでも清らかな小さな部屋自体が、人の思考を俗世間から離脱させる」

と述べている。

 茶室の静寂な空間で、腰の刀とともに、戦場の荒々しい心や政治の煩わしい心を置き去る。

 武士にとっては、茶の湯の作法が、一つの「心のリセット」になるとしたのだ。

 茶道では「四規七則」が言われる。

「四規」とは、
①和やかな心であること
②お互いに敬い合うこと
③清らかであること
④動じない心を持つこと
であり、

「七則」とは客人をもてなすときに大切な7つの心構えで、
①心を込めてお茶を点てる
②本質を見極める
③季節感を大切にする
④命を尊ぶ
⑤心にゆとりを持つ
⑥柔らかい心を持つ
⑦互いに尊重し合う
である。

 ときとして殺し合いにも臨まなければならない武士が、茶道の洗練された礼法の中で、心をリセットする重要性を新渡戸は簡潔に言い表しているが、この精神は禅にも通じるものであり、武士に限らず、現代社会の喧騒の中で、心をリセットし、自分の心を取り戻す機会を持ちたいものである。

 

 

参考文献
 熊倉功夫 『茶の湯の歴史』 朝日選書
 田中仙堂 『お茶と権力』 文春新書
 栄西 古田紹欽訳注 『喫茶養生記』 講談社学術文庫

 

(令和5年2月11日)

 

 

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