高橋 史朗

髙橋史朗113 – SDGs・ESDと道徳教育の関係――日本的ウェルビーイングの「真の自己」観

髙橋史朗

モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授

麗澤大学 特別教授

 

 

●SDGsとESDの関係

 開発途上国向けの開発目標として2001年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として、2015年9月の国連サミットで採択されたSDGsは、先進国、開発途上国を問わず普遍的な開発目標として2030年までに持続可能な社会を目指す国際目標である。

 持続可能な開発のための教育(ESD)は2002年に開催されたヨハネスブルク・サミットで、日本の提案に基づいて開始されたものである。ESDとSDGsの関係は、ESDはSDGsの教育に関する目標4「すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を保障し、生涯教育の機会を促進する」の中の指標4,7に、「2030年までに、持続可能な開発のための教育…を通して、すべての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする」と位置付けられている。

 従って、ESDはSDGsの目標の一部を構成する要素であるが、国連総会においても、ESDが「質の高い教育に関する持続可能な開発目標に不可欠な要素であり、その他のすべての持続可能な開発目標の実現の鍵」であると確認されており、SDGsの17すべての目標の実現に貢献するものである。

 2019年の国連総会において「持続可能な開発のための教育:SDGs達成に向けて(ESD for 2030)」が採択され、SDGsの実現を担う「持続可能な社会の創り手」を育成するための取り組みが一体的に推進されている。

 

 

●SDGsと学習指導要領との関係

 平成28年の中央教育審議会答申は、ESDを「次期学習指導要領改訂の全体において基盤となる理念である」と明記し、「世界をリードする役割を期待されている。特に、自然環境や資源の有限性を理解し、持続可能な社会づくりを実現していくことは,我が国や各地域が直面する課題であるとともに、地球規模の課題でもある。子供たち一人一人が、地域の将来等を自らの課題として捉え、そうした課題の解決に向けて自分たちができることを考え、多様な人々と協働し実践できるよう…先進的な役割を果たすことが求められる」と述べている。

 また、現代的な諸課題に対応して、「世界とその中における我が国を広く相互的な視野で捉えながら、社会の中で自ら問題を発見し解決していくことができるようにしていくことも重要となる。国際的に共有されている持続可能な開発目標(SDGs)等も踏まえつつ、自然環境や資源の有限性、貧困、イノベーション等、地域や地球規模の諸課題について、子供一人一人が自らの課題として考え、持続可能な社会づくりにつなげていく力を育んでいくことが求められている」とし、育成を目指す資質・能力の具体例として、「自然環境の有限性の中で持続可能な社会をつくるための力」を挙げるとともに、資質・能力の3本柱の1つである「学びに向かう力・人間性等」に含まれるものとして「持続可能な社会づくりに向けた態度」を挙げている。

 新学習指導要領の前文と総則において「持続可能な社会の創り手」を育成することが今後の学校教育や教育課程の役割として明記された。これによって、SDGsの実現を担う「持続可能な社会の創り手」を育成するというESDの狙いが、学校種や学年、教科などを越えた教育課程全体の基礎となる理念と重なることになった。

 

 

●SDGsと道徳教育の関係

 SDGsの実現を担う「持続可能な社会の創り手」を育成することを目指すESDの中心的役割を果たすことが道徳教育に期待される。SDGsの視点を取り入れることによって、道徳教育の課題を現代社会の課題に結び付け、「自分事」として捉えたり議論しやすくなる。

 道徳科における指導の配慮事項としても、「児童の発達の段階や特性等を考慮し、例えば、社会の持続可能な発展等の現代的な課題の取り扱いにも留意し、身近な社会的課題を自分との関係において考え、それらの解決に寄与しようとする意欲や態度を育てるよう努めること」(小学校学習指導要領第3章第3の2⑹)とあり、道徳教育とSDGsとを関連付けることのメリットが意識されている。

 加えて、同じく課題として指摘されている家庭や地域社会との連携強化についても、企業活動の質的変化をもたらすほど社会に浸透してきているSDGsを共通言語とすることにより、各学校における道徳教育の目標や重点を家庭や地域社会と共有することが容易になる。

 ちなみに、国立教育政策研究所は、持続可能な社会づくりを捉えるための要素となる主要な概念として、①多様性(いろいろある)、②相互性(関わり合っている)、➂有限性(限りがある)、④公平性(一人一人大切に)、⑤連携性(力を合わせて)、⑥責任性(責任を持って)の6つを挙げている。

 これらの概念は以下のように、道徳科の内容項目とも深くかかわっている。

⑴ 多様性――「相互理解、寛容」や「国際理解、国際親善」において、多様さを相互に認め合う関係を築くことが不可欠であるとされていることなどにあらわれている。
⑵ 相互性――「友情、信頼」における人間関係のつながりや、「家族愛、家庭生活の充実」における家族との関わり、「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」における地域社会とのつながり、「国際理解、国際親善」における国際社会とのつながり、「生命の尊さ」における多くの生命のつながり、「自然愛護」における人間と自然とのかかわりなどとしてあらわれている。
⑶ 有限性――「生命の尊さ」における生命の有限性、「自然愛護」における自然との共存、「節度、節制」における欲望を抑えた望ましい生活習慣などにあらわれている。
⑷ 公平性――「公正、公平、社会正義」における差別や偏見を排し公正、公平にふるまうことなどにあらわれている。
⑸ 連携性――「よりよい学校生活、集団生活の充実」や「勤労、公共の精神」における仲間との協力、「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」における地域社会の連帯、「国際理解、国際親善」における、国際的な連帯などにあらわれている。
⑹ 責任性――「善悪の判断、自律、自由と責任」における自律的で責任ある行動や、「希望と勇気、努力と強い意志」における、より高い目標を立て、やり抜くことなどにもあらわれている(日本道徳教育学会全集編集委員会・押谷由夫・貝塚茂樹他編著『新道徳教育全集』第1巻、学文社、参照)。

 

 

●道徳的価値をめぐる葛藤と対立について多面的・多角的に考える

 文科省初中局の大杉住子幼児教育課長によれば、SDGsの主要原則の一つに「統合性」があり、経済、社会、環境の三側面を、不可分のものとして調和させる統合的取り組みが求められている。現実社会においてこの3側面を調和させる過程では、経済的影響と環境負荷、社会的価値をめぐる葛藤や対立が生じ得る。こうした葛藤や対立のある事象を取り上げ、道徳的価値を実現する上での迷いや葛藤を大切にした展開を工夫した指導を行うことは、答えの定まらない問題について、道徳的価値と関わらせながら理解を深め、多面的・多角的に考えることができる力を育むために重要である。

 道徳科における指導の配慮事項についても、「持続可能な発展を巡っては、環境、貧困、人権、平和、開発といった様々な問題があり、これらの問題は、生命や人権、自然環境保全、公正・公平、社会正義、国際親善等様々な道徳的価値に関わる葛藤がある。このような現代的な課題には、葛藤や対立のある事象等も多く、特に『規則の尊重』『相互理解、寛容』『公正、公平、社会正義』『国際理解、国際親善』『生命の尊さ』『自然愛護』等については現代的な課題と関連の深い内容であると考えられ、発達の段階に応じてこれらの課題を取り上げることが求められる」と解説している(小学校学習指導要領解説、特別の教科道徳編第4章第3節6⑵)。

 

 

●持続的幸福と道徳の関係を問う荘子「天籟」と道元「身現」

 ところで、前回の拙稿連載で紙面の都合で割愛した、ウェルビーイングと切っても切れない関係にある「真の自己」、持続的幸福と道徳の関係を問うキーワードである『荘子』の「天籟」、道元の「心身一如」「身現」、西田幾多郎の「行為的直観」について補足しておきたい。

 老荘思想の古典の一つである『荘子』斉物論編では、全自然がおのずと奏でる調べ、すなわち「天籟てんらい」(「籟」はあなを通じて発する音、という意味)に耳を澄まし、万物と一体化した全体論的自己が「真の自己」と捉えている。

 この全体論的自己はその後、禅思想に取り入れられ、「森羅万象として現れている身体としての自己」として表現されるようになり、道元は『正法眼蔵』において次のように説いた。

 

<仏道にならうとは、自己をならうことである。自己をならうとは、自己を忘れることである。自己を忘れることは、万法に証せられることである。万法に証せられるとは、自己の心身をも他己の心身をも脱ぎ捨てることである>

 「真の自己」のもう一つの特徴である「身体的行為性」の源泉の一つは「心身一如」の思想である。道元はこれを「身現」として概念化したが、「身現」とは、自己が世界の真の在り方(実相)を表現するその身体行為になりきるさまを表している。座禅などの修行に打ち込む身体行為によって世界の実相と一体化した「仏性」になりきることを意味している。

 

 

●西田幾多郎「見性」が道徳の根底

 最後に、「行為的直観」を説いた西田幾多郎は、次のように指摘している。

 

<仏教において観ずるということは、対照的に神仏を観ることではなくして、自己の根源を照らすこと,省みることである(『哲学論文集第7』)。>

 

<自覚において、われわれは単に自己のうちに入るのではない。自己の根源にかえるのである。しかしてそれは世界成立の根源に入ることに外ならない。自己が始まる時、世界が始まる。世界が始まる時、自己が始まる。…それは道徳の根底となる立場である(『哲学論文集第6』)>

 西田によれば、自己が徹底的に死ぬことが、逆に「真の自己」が生きることにつながる。この点に関連して、西田幾多郎は次のように指摘している。

 

<われわれの自己は、どこまでも自己の底に自己を超えたものにおいて自己を持つ。自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを “見性”という。禅宗にて “公案”というものは、これを会得せしめる手段にほかならぬ」「われわれは自己否定的に、逆対応的に、いつも絶対的一者に接している(秋月龍珉あきづきりょうみん『鈴木禅学と西田哲学』春秋社)>

 「矛盾的自己同一」とは、矛盾や対立をなくすことにおいて同一になるのではなく、むしろ逆に矛盾を徹底的に先鋭ならしめて、否定をバネにして非連続的に連続することを意味する。自らの存在をあるがままの相において把握しようとする「存在の論理」に徹するならば、必然的に自己の主体的な気づきの深まりの論理である「自覚の論理」へと進み、“見性”というすべての仏教の教説に共通している根本体験に行き着くのである。このような「真の自己」観が日本的ウェルビーイングの根本思想といえる。

 

(令和5年2月4日)

 

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