川上 和久

川上和久 – 礼道の要――型に固執せず

川上和久

麗澤大学教授

 

 

●小笠原流礼法のはじまり

 新渡戸稲造が『武士道』で触れた第6章の「礼儀」について、さらに続けていきたい。

 武士の礼儀を源流とする礼法として、まず思い浮かべるのが「小笠原流礼法」ではないだろうか。

 新渡戸も、第6章「礼儀」の中で、小笠原流宗家・小笠原清務の「礼道の要は、心を訓練するにある。礼をもって正坐すれば、凶人が剣をとって立ち向かってきても、害を加えることができない」という言葉を引いている。

 もともと、小笠原流礼法とは、どのようにして生まれたのだろうか。

 小笠原氏は、新羅三郎源義光を祖とする甲斐源氏で、3代遠光の子長清が甲斐国小笠原の地に住んで小笠原を名のった。1331年(元弘元年)、正中の変に続いて後醍醐天皇が討幕を企てたクーデター(元弘の変)で、クーデターは未然に発覚して天皇は隠岐に流されたが、楠木正成らの反幕府軍が各地に蜂起し、足利尊氏、新田義貞らの有力な武将も幕府にそむき、鎌倉幕府は滅亡した。このときに小笠原長清は足利尊氏に従って戦功をあげ、信濃の守護となって「信濃小笠原家」と言われた。

 その後、戦国大名の小笠原長時は府中(松本市)を追われたが、その子・貞慶が徳川家に仕え、武田氏の滅亡のとき信濃に入って家を再興し、小笠原氏は豊前国小倉に移封となり、小倉藩となった。

 京都小笠原家は、信濃小笠原家の庶流とされる。

 京都小笠原家が歴史資料に登場するのは、1430年(永享2年)、京都小笠原家の備前守持長が、将軍義教の御弓師を務めたという記載であり、1442年(嘉吉2年)に将軍義勝が就任すると、持長の子持清が「御師範」を勤めた、将軍義尚の代には持清の子・政清が将軍に弓馬之道を伝授したとある。

 京都小笠原家は、その後織田信長に従ったが、さまざまな武家故実書を残している。

 

 

●武士の礼法の普及

 江戸時代には、大名・旗本の小笠原家が礼法教授を生計の手段とすることを禁じたが、江戸時代初期に浪人の兵法、軍学、武家故実の私塾が盛んとなったため、民間に小笠原流兵学が流布し、広がっていった。

 1632年(寛永9年)には『小笠原家礼書』7巻1冊、『小笠原諸礼集』3巻1冊が『小笠原百箇条』とともに出版され普及した。中期以降は、小笠原流が武士の礼法としてだけでなく、庶民にも躾、礼儀、作法を指導するものとして普及していった。

 新渡戸がその言葉を引用した小笠原清務は、1846年(弘化3年)に生まれた小笠原流の宗家で、皇女和宮降嫁の礼式もつかさどっている1879年(明治12年)に、アメリカのグラント前大統領が来日した際、明治天皇の前で流鏑馬やぶさめを演じてもいる。

 小笠原清務は、明治以降の近代の女礼式の基礎を作り、『新選女礼式』『小学女礼式』などを著して、1913年(大正2年)に死去している。

 小笠原清務だけでなく、1896年(明治29年)には、元小倉藩主・伯爵小笠原忠忱が『小笠原流女礼抄』を刊行し、女子教育の礼法指南書となった。1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)にかけては、『礼儀作法全集』全9巻が刊行されるなど、武士の礼法であった小笠原流礼法は皇室・国家に関する礼法として普及していった。

 

 

●本質を理解し、備えること

 小笠原流礼法は、えてして、形にうるさい厳格な礼法として知られているが、その本質は、あくまで「武士の礼儀」だ。私は、小笠原流礼法を受け継ぐ小笠原敬承斎宗家にお会いして、小笠原流礼法についての謦咳けいがいに接したことがあるが、そのときの印象深い言葉がある。

「よく、小笠原流では、畳の縁を踏むなと教えている、と型にはまったようなイメージで語られることがありますが、そのおおもとになっているのは、畳の縁を踏んでしまうと転んでしまう可能性が高くなるからなので、そういった合理性に裏付けられて礼法は作られているのです」

 ああ、なるほどな、と思った。武士の礼法というものは、決して、やみくもに型にはまったものではない。一つ一つの礼法が合理性に裏付けられて、常に周囲に繊細な神経を行き届かせるものでなければならない、というものなのではなかろうか。

 江戸時代から明治期にかけて、「礼法」という形ができ、人口に膾炙かいしゃするにつれて、なぜ、そうしなければならないか、というよりも、「形」が大事にされる風潮も一方で生まれてきたのかもしれない。

「形」を大事にするあまり、本質を見誤ることは、えてしてあり得る。空手は、相手を倒すための打撃技だ。私自身も、空手を学び続けている。しかし、一定のルールの中で相手に勝つことは、スポーツの範疇に属することになってしまう。

 今から約50年前のことになるが、どこかの大学の空手部の主将である有段者が繁華街でチンピラと喧嘩になったことがあった。主将は、自分が習ってきた空手の型通りに相手から自分を守ろうと「上段受け」をしたものの、その上からビール瓶でチンピラに殴られて、命を失ってしまった。命のやりとりをするのに、自分の型にとらわれても役に立たない典型だろう。

 武士は、自らの命のやりとりをし、そのための鍛錬を日々重ねてきた存在だ。自分の型にとらわれ、それに固執するのは、武士の「礼」の本質とは違う。礼を守りながらも、その本質を理解し、常に周囲の「気」を感じ、備えなければならないということを小笠原清務の「礼道の要は、心を訓練するにある」という言葉は表している。

 個人個人の問題だけではない。国際情勢が緊迫している中、国家の大事にあたって、「心を訓練する」武士の心持が、相手に隙がない「備え」を感じさせることにも通じるのではないだろうか。

 

 

参考文献
 新渡戸稲造 須知徳平訳 『武士道』 講談社
 小笠原敬承斎 『見てまなぶ日本人のふるまい』 淡交社
 小笠原清忠 『小笠原流の伝書を読む』 日本講道館

 

(令和5年1月5日)

 

 

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