髙橋史朗105 – 神話と杜は日本型ウェルビーイングの原型――ホリスティックな視点から
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授
麗澤大学 特別教授
●「ホリスティック医学」とは何か
1960年代後半から70年代にかけて医療の世界において、ホリスティック・ヒーリングと呼んで、「全体論的医療」を標榜する草の根運動が起こり、その結果、1978年にアメリカで「ホリスティック医学協会」が設立され、その後世界的にホリスティック医学が広がり、日本にも1987年に「日本ホリスティック医学協会が」が設立された。同協会は「ホリスティック医学」について次のように定義し、「ホリスティック」という言葉について「意味する内容は決して新しく輸入された考えではなく、もともと東洋に根づいていた、包括的な考えに近いもの」である点を強調している。
⑴ ホリスティック(全的)な健康観に立脚する――人間を「体・心・気・霊性」などの有機的統合体と捉え、社会・自然・宇宙との調和に基づく包括的、全体的な健康観に立脚する。
⑵ 自然治癒力を癒しの原点に置く――生命が本来自らのものとして持っている「自然治癒力」を癒しの原点に置き、この自然治癒力を高め、増強することを治療の基本とする。
⑶ 患者が自ら癒し、治療者は援助する――病気を癒す中心は患者であり、治療者はあくまでも援助者である。治療よりも養生が、他者療法よりも自己療法が基本であり、ライフスタイルを改善して患者自身が「自ら癒す」姿勢が治療の基本となる。
⑷ 様々な治療法を総合的に組み合わせる――西洋医学の利点を生かしながら、日本を始め、中国、インドなど、各国の伝統医学、心理療法、自然療法、栄養療法、食事療法、運動療法、民間療法などの様々な療法を総合的、体系的に組み合わせて、最も適切な治療を行う。
⑸ 病への気づきから自己実現へ――病気を自分への「警告」と捉え、人生のプロセスの中で、病気を絶えず「気づき」の契機として、より高い自己成長・自己実現を目指していく。
●マスロー「第三の心理学」と「ホーリズムの5原則」
1980年代に入ると、あらゆる技法を捨てたところに本来の道が開けるという中国のタオ(道)の思想が根付き始め、アメリカの心理学者マスローに影響を与え、従来の心理学理論の二大主流であるフロイト主義とワトソンの行動主義理論に代わる「第三勢力の心理学」と呼ばれる、新しい「人間性心理学」に受け継がれた。
フロイト主義と行動主義は、人間を動物の一別種にすぎないと見なし、人間と動物との本質的な相違は全くないと考え、人間の行動を目に見える量的法則に還元しようとした。これに対してマスローは、人間の願望・希望・抱負などの「精神的健康」に注目し、科学の権限の中から価値を排除する伝統的な考え方に対して真っ向から対立した。
この人間性心理学は今日、「第三の心理学」として不動の地位を確立しており、アメリカを中心に、教育・産業・組織と運営、治療・自己改善などの分野に多大な影響を与えている。
ところで、前回論じた『ホーリズム』の5原則について、ジョン・ミラーは次のように整理している。
⑴ 宇宙は根源的に一つのもの(一如)であり、あるものが他の全てのものとつながり合っているのがリアリティ(実在の実相)である。
⑵ その宇宙の統一性と、一人ひとりの内なる自己ないし、高次の自己は、深く結び付き合っている。
⑶ その<つながり>は、心静かに魂と対話する黙想や瞑想によって直感的に洞察できる。
⑷ 価値や意味は、この実在の実相に目覚め、その<つながり>を自覚するところから生じてくる。
⑸ 社会の不正や困難に立ち向かう不屈の行動は、この<つながり>が人間において自覚されるときに生まれる。
●ホーリズムを採り入れたアドラー心理学――スマッツとアドラーの親密な関係
大阪府立大学の吉田敦彦教授は、「アドラー心理学とホリスティック教育との合流」と題する論文(『喜びはいじめを超える――ホリスティックとアドラーの合流』春秋社)において、ホーリズムの提唱者であるスマッツとアドラーが親密な関係にあったことを、スマッツの著書『ホーリズムと進化』(石川光男・片岡洋二との共訳、玉川大学出版部)を読んで非常に感動したアドラーがスマッツに書き送った手紙や、それに対して「二人の観点がいかに密接につながり合い、相互に支え合うものであるかを、私は全く理解できる」と述べたスマッツの返書などを紹介し、さらに両者の関係に言及したいくつかの論稿を引用している。
また、筆者とも親交のあった岩井俊憲氏は「アドラーは、ホーリズムの創始者スマッツと親交が厚く、スマッツの影響を受けながら1920年代の後半から自分の心理学理論にホーリズムを採り入れた」と指摘し、ホーリズムはアドラー心理学の中で次の2つのニュアンスで生かされているとしている。
「第一は、人間の内部には、意識と無意識、理性と感情、肉体と精神というような、相反する動きによる葛藤はなく、意識と無意識も、理性と感情も、肉体と精神も、全てが一丸となって個人の目標追求を支えている。つまり、人間は分割できない全体である、と考えられる。……ホーリズムの第二のニュアンスは、人間の行動は、他の人と共有する場の中の関係としてみて初めて意味を持ち、特定の場でその人だけの問題として見ても参考にならない。つまり『全体は部分の寄せ集めではない』と考えられる。人間は人間共同体の中でのみ生きて行けるのであって、集団を離れて生きることはできず、集団の中で様々な形で自分の居場所を見つけようとする。だからこそ、集団の中でのある人の行動を理解するには、集団(全体)を度外視するのではなく、集団という場での個人の行動の特定の意味を問わなければならない」(髙橋史朗編『癒しの教育相談理論――ホリスティックな臨床教育学(『癒しの教育相談――ホリスティックな臨床教育事例集』第1巻)』明治図書、参照)
アドラー心理学にスマッツのホーリズム理論の強い影響が見られるのは、宇宙の<いのち>のつながりの感情が「共同体感覚」の根源であると捉えている点である。アドラーは「共同体感覚」が精神的健康と深くかかわっていると考え、子供の問題行動はこの「共同体感覚」が育っていない状態の表れと捉えた。
アドラーの言う「共同体感覚」の三大構成要素は、①自己肯定感、②他者への基本的信頼感、➂貢献感であり、これらの感覚の育っている子供が精神的に健康な子供であり、困難を克服できると考えた。アドラー心理学は日常の教育の具体的な方法論を提示しており、この点で弱点のあるホリスティック教育・理論を補完する役割を果たすものといえる。
●「健康」の語源と「場の医学」
ところで、ウェルビーイングの中核である「健康(health)」という言葉は、ギリシャ語のholos「全体」に由来し、「強壮な」という意味の“hale”から派生したものである。このことは健康というものは、部分的、断面的に見るものではなく、全体的、統一的に見なければならないものであることを示している。
「健体康心」の略語である「健康」は「健やかな体と康らかな心」の全体のバランスを強調する言葉で、<いのち>の全体性に心身のつながりが支えられている状態で、そこから「生きる力」「生きる喜び」が湧いてくる。
病むというのは、<いのち>の全体性から引き離されて、<いのち>の根源を見失い、孤立化している状態をいい、健康(health)とはhealした状態、すなわち単に病がないという消極的状態ではなく、心身全体が調和し、社会的にも良好な状態(ウェルビーイング)を保持していることを指す。
従って、癒しとは<いのち>の全体性から孤立している状態から、全体的な地平に導き、<いのち>のつながり、関係性を回復し、全体としての調和を取り戻し、<いのち>の全体性につながって生きるように仕向ける働きであると言えよう。また、「癒しとはヒーラーによる愛そのものの働きだ」(カールソン)という指摘もある。
西洋医学は局所をはっきり見るために、周囲との網の目のようにつながっている関係はとりあえず切り離してきた。例えば、臓器と臓器、細胞と細胞、遺伝子と遺伝子などの相互関係を切り離してきた。
しかし、切り捨ててきた網の目のような関係(物理学的に言う「場」)に注目しなければ<いのち>の本質はわからない。個物と個物をつないでいる全体の関係性を捉えた西田幾多郎の哲学を「場の哲学」とするならば、「場の医学」「場の教育学」こそが求められていると言える。
「場の医学」ともいうべき東洋の民間医療や伝統医学はホリスティックな視点に立っており、治療のできない末期の患者が痛みのない穏やかな死を望んで入院する現代のホスピスも、延命より患者の心の痛みを緩和し、心を癒すためにホリスティックな視点に立って様々な工夫をしている。例えば、建物も室内もヒーリング・アート(癒しの芸術)で満ち溢れており、すべての感覚を癒すためにアートが総動員されている。
●「癒し」とは何か――「社」と神話は日本型ウェルビーイングの中核
「癒す」とは「治す(cure)」こととは異なり、内在する自然治癒力を高めて、身・心・霊の<いのち>全体を蘇らせてなごむように援助することを意味している。healという言葉は、「癒す」という他動詞の意味と「癒える」という自動詞の意味を併せ持っており、「癒し」が「癒し癒される」関係において実現することを暗示している。
「癒し」は治療や目に見える変化を追求する「セラピー」とは異なり癒す者(ヒーラー)自身が癒しの行為を通して癒される点に特徴があり、「癒し癒される」関係において、全ての人の中にある自然治癒力を蘇らせ、<いのち>のつながりを修復し、場を整えることによって、<いのち>の全体性と連続性を取り戻す働きといえる。
この「癒し」の伝統は日本文化にも深く根差している。癒しの行為そのものは古くからあり、わが国では、社(やしろ)は本来「いやしろ」であり、癒しの場を意味していた。そこにみんなが集まって祭りをし、願いや祈りなどを通して、「癒し癒される」場が整えられ、踊りや相撲や集会、祈願などによって心が癒されてきたのである。このように、「癒し」の意味を社(やしろ)が見事に象徴しており、社は次図のように4つの意味を含んでいる。
わが国には、古来より日常生活の罪穢れを大晦日に祓い流し、正常な心身で新年を迎え、一年の幸福を祈願する伝統があるが、このように癒しは祈りと一体となって、「死と再生」を経験する「通過儀礼」としての機能を果たしてきた。私たちが常にこの「死と再生」のサイクルを継続的に経験しなければならないことを物語っているのが「神話」である。
(令和4年12月28日)
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