川上和久 –「武士の情け」――生き様の中で涵養すべき徳
川上和久
麗澤大学教授

JR熊谷駅前の熊谷直実像
●「日本一の剛の者」熊谷次郎直実
新渡戸稲造の『武士道』は、1905(明治38)年に増補版が刊行されているが、その中で、もっとも増補が多かったのが第5章「仁・惻隠の心」について解説した部分である。
「武士の情」という言葉があるが、初版では、この部分がじゅうぶんに理解されないと新渡戸は判断したのだろうか。
この「仁」を論じた第5章の中で、新渡戸がかなりの字数を割いて取り上げたのが、熊谷次郎直実である。
熊谷直実は、1141(永治元)年に、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の熊谷市)の領主であった熊谷直貞の次男として生まれている。母が武蔵国の豪族久下権守直光の妹であり、直実が2歳の時に、父親である直貞が亡くなったため、叔父の久下直光に養育された。直実は、直光の代理として「大番役」として上洛する。
「大番役」とは、鎌倉期の内裏・院御所諸門の警固番役で、御家人役の一つだ。平安時代後期にはすでに諸国武士による交替勤番制があり、「大番」の呼称が定着していた。
この、京都での大番役を終えて後も、直実は平知盛に仕えて都にとどまったが、その間に叔父である直光が直実の所領を押領したため、境相論が発生している。
平知盛に仕えていたことで、源頼朝が以仁王の令旨を受けて平家討伐の兵を挙げた1180(治承4)年の「石橋山の戦い」では平家方で戦ったが、その後源氏の御家人となり、平家の佐竹秀義を攻撃した戦いで戦功をあげ、頼朝より熊谷郷の安堵を受けた。
新渡戸が直実について語っているのは、その後の源氏による平家追討の中での「一ノ谷の合戦」でのエピソ―ドだ。

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●知ってもらいたかったこと
一ノ谷の合戦が行なわれたのは1184(元暦元)年のことだが、源義経が、絶壁を騎馬で駆け下り、平家軍の背後に突入した「鵯越の坂落し」によって、予想外の場所から現われた敵に平家軍が大混乱に陥り、平家の多くの有力武将を失った戦いだった。
この中に、1169(嘉応元)年に、平清盛の弟・経盛の末子(3男)として生まれた平敦盛もいた。「平家物語」では、その、まだ弱冠15歳の若武者ぶりを、
「練貫に鶴繍うたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形打ったる兜の緒をしめ、金作りの太刀を佩き、二十四指いたる切斑の矢負い、滋藤の弓持って連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて……」
と、颯爽たる姿であったと表現している。
敦盛は、味方の軍勢が総崩れになる中、やむなくただ一騎、沖の船を目指して馬を泳がせます。ところがそこへ、
「大将軍と見参らせ候え。敵に背中を見せるとは卑怯なり」
と声をかけたのが直実だった。
敦盛は、この挑発的な言葉を無視して沖の船に向かうことなく、己の武士の名を惜しむことを選び、海から取って返して直実との勝負を挑むが、波打ち際で直実に組み付かれ、落馬してしまう。
取り押さえた直実がとどめを刺そうとしてよく見ると、相手はまだ15、6歳にしかならない少年。直実は、同じくらいの年齢の我が息子、小次郎のことも思い浮かべ、哀れに思って敦盛を手にかけることをためらったが、すでに源氏の軍勢が迫っている中、自分が手にかけずとも敦盛は打ち取られる運命だった。
敦盛は、自分が誰であるかは名乗らずに「お前のためには良い敵である。名乗らずとも首を取って人に見せよ。さあ首を取れ」と促し、直実は「ならば我が手にかけ、後の菩提を弔い申そう」と、泣く泣く敦盛の首を掻き切ったという。
直実は自分が討った少年が敦盛であったことを知り、武士の生業に虚しさを覚え、出家して敦盛の菩提を弔いつつ1208(承元2)年にこの世を去ったとされる。
このエピソードは、戦いに挑み、相手の命を奪わなければならない武士の宿命と、勇猛な武士であっても、「惻隠の心」を持っていることを新渡戸は知ってもらいたかったのではなかろうか。
●命を奪う存在でありながら
直実のエピソードは、「武士の情」を示すエピソードとして「平家物語」だけでなく、様々な形で伝わっていくこととになる。敦盛を題材にした幸若舞「敦盛」もそうだが、直実が世をはかなんで、
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
と詠む一節は、織田信長が好み、桶狭間の戦いに臨む際に舞ったことはよく知られている。
また、歌舞伎でも「一谷嫩軍記~熊谷陣屋」でこのエピソードが用いられているが、こちらは、敦盛を助けるために直実が身代わりに息子を手にかけるなど、「武士の情」とは外れた脚色が行われている。
「脚色」という点では、直実が敦盛を手にかけたのは事実だが、そのことで世をはかなんで出家した、というのも疑義が寄せられており、1187(文治3)年に行われた鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を拒否して頼朝の不興を買い、所領の一部を没収されたことや、1192(建久3)年に叔父直光との境相論の席で、頼朝が直光を支持する気配をみせたことに立腹して逐電したことも出家の動機として指摘されている。
直実は京都に赴き、法然の門に入り、蓮生と号したが、敦盛の菩提を弔う心情は変わることなく、最後は端座合掌して高声念仏しながら往生したとされる。
新渡戸は直実のエピソードを通して、
「批評家は、この物語を読んで、あるいはこの物語の欠点を指摘するかもしれないが、いずれにしろ、優しさ、憐れみ、愛、が武士の最も激烈な武功を美化する特質であることを、この物語が示すことにはかわりがない」
と述べている。
「武士の情」が、戦いで人の命を時として奪う存在でありながらも、武士が生き様の中で涵養すべき徳であることを、新渡戸はこのエピソードから海外に分かりやすく示したといえよう。
(令和4年11月9日)
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