髙橋史朗83 -「幸福学」の創始者に学び、道徳・倫理学に活かす
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団 道徳科学研究所教授
麗澤大学 客員教授
●幸福学とポジティブ心理学の創始者
ウェルビーイングに関する学術論文は、20年前は毎年100件程度に過ぎなかったが、今や10倍に増えている。医学・心理学・脳神経科学・経済学・経営学・工学など様々な分野に広がっている。『Journal of happiness studies(幸福研究ジャーナル)』などの専門誌に、happiness, well-being, positive-psychologyに関する論文が多数発表されている。ちなみに、同誌では、幸福研究を「人々の主観的な生活の評価や幸福という感情を中心に研究する複合領域研究」と定義している。
「人生満足尺度」という幸福度を測るアンケートを開発した「幸福学の父」と呼ばれる幸福学の創始者エド・ディーナーは、20年間に発表された250本の論文をメタ分析し、幸福感において自己評価の高い人は、他者評価も高い傾向にあることを論証した。
ポジティブ心理学はうつ病の研究者であったマーティン・セリグマン博士が提唱したものであるが、うつ状態の人だけでなく、幸せな人がさらに幸せになる心理学研究を進めた。
ポジティブ心理学は、幸福度を統計学的に測定する方法と幸福の因子の科学的分析によって、どうすれば幸福感を味わえるかを追求する学問である。
幸福学研究が学術的に花開き始めた理由の一つは、産業の活性化が幸福に寄与しないことが明らかになったからである。縦軸に1人当たりのGDP、横軸に幸福度をとると、GDPは1960年代から約7倍に上昇しているのに対して、生活満足度(幸福度)はほぼ横ばいである。
映画『三丁目の夕日』の時代、高度経済成長期の頃は幸せだったと言われがちであるが、統計的には今と幸福度は変わらない。つまり日本は戦後、高度経済成長を遂げたのに、幸福度はほとんど変わっていないのである。これは衝撃的な事実といえる。GDPは増えても幸福度は変わっていないことが明らかになったのである。
●「道徳的実践意欲と態度」につなぐキ―ワードは「願力」
ノーベル賞を受賞したプリンストン大学のダニエル・カーネマン教授の研究によれば、年収が7万5千ドルまでは年収と幸福度は比例するが、それ以上になると比例しなくなる。雑誌『プレジデント』2018年8月号の特集記事「年収と幸福度の関係」によれば、400万円以下でも幸せな人は家庭や友達関係に恵まれている。
他人と比較しない人は幸福度が高い。年収1千万円以上で不幸な人は人間関係が良くない人が多い。年収1千万円以上でも不満で、足りないと感じている。1千万円でも自由時間が少ない人は幸福度が低い。このようにお金と幸福度の関係が分かってきた。
本連載82で紹介したように、ポジティブ心理学の創始者でアメリカ心理学会会長のセリグマン博士は、幸せの要因として「PERMA(パーマ)」を提唱している。Positive emotionはポジティブな感情、うれしいこと、Engagementは何かに没頭している状態、Relationshipは人間関係がいいこと、Meaningは生きる意味が明確であること、今の仕事の意義を深く理解していて充実感があること、Accomplishmentは、何かを達成するために努力している状態を意味し、この幸福の5要因が幸せに影響すると述べている。
チューリヒ大学のフレイ博士は、幸福な人は不幸な人より10年以上長寿だという研究結果を発表している。幸せな人は免疫力が上がり長寿になる。幸福と病気との相関関係も明らかになっている。また、幸福と自殺願望は反比例している。
さらに、老年的超越研究によれば、90~100歳は幸福度がものすごく高いことが分かっている。私の家内の94歳の母は毎日明治神宮を参拝し、平凡な毎日の些細な出来事の一つひとつが「幸せでありがたい」と感謝の言葉を連発し、「今が人生で一番幸せ」としみじみ語るが、このように高齢者が幸せな社会になれば、日本は世界一の「幸福大国」になれる。
前野隆司氏(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授兼慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長)によれば、幸せな人は創造性が3倍となり、生産性が31%上昇し、小売業は売り上げが37%上昇する。また、多様な友達を持つ人は幸福度が高く、いろいな友達と仕事をしている人は幸せである。チームで仕事を行う際に参加者の多様性が高い方が創造的で革新的になる。
社会的課題を解決する活動への参加意欲が高い人は幸福度が高く、社会貢献や利他的生き方に興味がない人は幸福度が低い。利他的な生活をしていると、あたかも神様からのご褒美のように、幸せになるように心ができている。人を幸せにしてあげたいと思って生きていると幸せになる。
●幸福学は「心の健康の予防医学」
Well-beingという言葉は健康、幸福、福祉という3つの概念を包含するが、幸福とwell-being, happyはどう違うのか。ハッピーはお酒を飲んだり美味しいもの食べたりしたときのような短期的な感情である「一時的な感情的幸福感」を表す言葉で、幸福の方が広い概念である。麻薬によって一時的に気分は高まるが、「持続的幸福」にはつながらない。幸福は心が持続的に良好な状態であり、happinessよりもwell-beingに近い概念といえる。
社会的ネットワークと、行動、健康、長寿の社会経済的、進化的決定要因に関する研究で有名なエール大学の予防医学のニコラス・A.クリスタキス教授らのネットワーク分析研究によれば、風邪や肥満や喫煙のように、不幸せの心の状態の代表例である「鬱」もうつるし、不幸せもうつるという。病気と同様に、心の病気や健康もうつるのであれば、親や教師自身の幸福度が高くなければ、子供の幸福度を高めることはできない。まず教師と親の心のコップを上に向ける「主体変容」が求められるのは、「心の健康の予防医学」である幸福学の視点からも裏付けられる。
心が幸せな状態であると心の病気にも体の病気にもなりにくいことが分かってきた。例えば、幸せな人は大腸がんになりにくい。大腸がんになる因子が様々ある中で幸せ因子が影響している因子の一つであることが判明している。
我が国の「幸福学」研究の第一人者である前野隆司氏が提唱する幸福学は統計学から導き出されたものである。利他的な人は幸せなのか、1万人に調査すると、かなり強い相関関係が明らかになり、統計データによって、人々に優しくすると幸せになることが実証的に裏付けられた。
●道徳・倫理学としての「ホリスティック幸福学」
前野隆司氏が提唱する幸福学は、人文科学を土台とするものではなく、自然科学・社会科学をベースとする「人間学」としての幸福学であり、統計的データという客観的な科学的根拠に立脚するものである。
理論と実践の往還による包括的な幸福学研究が求められており、実証心理学的アプローチによって、仮説の妥当性を実験や調査の科学的データに基づいて検証する「理論」研究と、臨床心理学的アプローチによって、実証心理学研究で分かったことを現実に応用して、実際に人が幸せになると思われる「実践」活動の往還によって「ホリスティック幸福学」研究を深める必要がある。
カナダのブリティッシュコロンビア大学のエリザベス・ダン教授の研究によれば、お金を自分のために使うグループと、他人のために使うグループの幸福度を測定すると、他人のために使った人のほうが幸福度が高いことが判明した。他人のために使うと人に感謝されるため、幸せな気持ちが持続する。その結果、「持続的幸福」が長期間維持されるわけである。
道徳・倫理学は、何をすべきか、何をすべきではないかを学ぶ学問である。いうまでもなく人間は利他的になるべきであり、良き在り方、すなわちwell-beingについて学ぶのが「幸福学」であり、ウェルビーイング研究に他ならない。その意味で、幸福学は「道徳・倫理学の一部」といえる。
統計データに基づく科学的道徳・倫理学として幸福学を提唱したのが前野氏の幸福学であり、従来型の教育から脱却して、一人ひとりの子供が何をしたいのかという内発的な「願い」を引き出し、主体的で対話的な学びにつなげることによって、個性を伸ばしその延長線上でなぜ学ぶのかを深く探究させる必要がある。
幸福度が低い人の幸福度を高める方法の一つに「コーチング」という手法がある。主体的で深い対話を重ね、思っていることにしっかり耳を傾け、ポジティブに物事を捉え、楽観的、肯定的に考え、利他的にふるまい感謝するように導くと幸福度が高まる。
●「美しい心」を実践し発信する「幸福大国」
学校教育や社会人教育向けの、幸福度を高めるハッピーワークショップも広がっており、「幸せ応援シート」を使った小学生向けのウェルビーイングプログラムでは、四つ葉のクローバーに幸せ4因子(やってみよう・ありがとう・なんとかなる・自分らしく)を書き込み、その周りに他の子供たちに応援メッセージを書いてもらう。始業式や卒業式にやると、とても効果があることが分かっている。
政府の教育再生実行会議の第12次提言「ポストコロナ期における新たな学びの在り方」において、「ウェルビーイングの理念の実現を目指すことが重要」と明記し、「学習者主体の視点へ転換するという意識改革」を呼びかけているが、SDGsを「自分事」として捉える「常若産業甲子園」のように、一人ひとりが何をしたいのかという自らの内なる願い、すなわち、内発的な志・夢に気づかせ、目標達成へと導くことが大切である。
前野隆司氏は今後の検討課題として、⑴学校教育において幸福学を道徳教育で教えるのか、⑵総合的学習の時間を拡張するのか、⑶ウェルビーイングという新科目を作るのか、どれかができればいいと述べているが、幸福学は親も教師も学ぶ必要のある生涯学習の課題であり、まず、幸せの因子の実行を大人も子供もみんなが目指して周りに発信していくことから始める必要があろう。髙橋塾では⑴を目指した共同研究に取り組み、学会発表を重ねている。
「美しい国」日本が今日の全体主義的マスコミ報道に振り回されない不動の「幸福大国」として、「美しい心」「持続的幸福」を世界に発信し、世界を照らし、世界を幸せにする国になるための歩みを一人ひとりの身近な実践から始めようではないか。
(令和4年9月18日)
※髙橋史朗教授の書籍
『WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と「歴史戦」』
『日本文化と感性教育――歴史教科書問題の本質』
『家庭で教えること 学校で学ぶこと』
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