川上 和久

川上和久 – 辞世の句――死に臨み、歌を詠む精神性

川上和久

麗澤大学教授

 

小夜の中山公園 西行法師歌碑(静岡県掛川市)

 

●死して強烈な印象を残す

 自らが死に臨むとき、武士は、それまでの自分の生をどのように捉えるのだろうか。

 それが端的に表れるのが、「辞世の句」だろう。

 辞世とは、この世に別れを告げることを意味する。そして、遠からぬ死を見据えて先人がこの世に書き残した最後の句が、辞世の句だ。臨終の間際に限らず、死を予見し、あらかじめ書き残した句や、死は意識せずとも生涯最後になってしまった句なども含まれている。

 辞世の句は歌、武士の専売特許ではなく、平安時代から著名な辞世の句が存在する。

 もっと有名なのが西行法師だろう。

 西行法師は、もともと武士であった。1118年(元永元年)に検非違使左衛門尉佐藤康清の子供として生まれ、佐藤義清のりきよとして鳥羽院の下北面の武士であったが、和歌や蹴鞠にも堪能であった。

 1140年(保延6年)、23歳で出家。藤原頼長の日記『台記』には、道心による遁世とんせいであると記されているが、早くから近親者の急死にあって無常を感じたため、あるいは悲恋の結果などの諸説が唱えられているが、真相は明らかではない。

 出家後は真言宗の僧としての修行に励み、中国・四国地方を巡ったりしたが、晩年は伊勢国にあって、和歌を通じて人々と交わった。1190年(文治6年)2月15日に73歳で没しているが、その辞世の句は「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」。仏教の開祖釈尊の入滅の日である旧暦2月の満月の日は、出家した西行にとって特別の日であり、同じ涅槃会の頃に死にたいものだと願い、その通りに世を辞していったのだ。

 戦国武将による辞世の句も、強烈な印象を残している。

 織田信長は、辞世の句を残してはいないが、民衆芸能だった「幸若舞」の「敦盛」の一節、「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生をうけ滅せぬ者の あるべきか 」を特に好み、1560年(永禄3年)に桶狭間で今川義元を打ち破った際も、出陣前にこれを舞い、1582年(天正10年)に本能寺の変で明智光秀に討たれた際も、今生の別れにこれを舞ったと伝えられている。

 豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に没したが、辞世の句は

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。

 天下人であってさえ、夢のまた夢のような一生を送ったというはかなさが、庶民の心を捉えた。

 徳川家康が1616年(元和2年)に没した際は、「嬉やと 再び覚めて一眠り 浮世の夢は 暁の空」 「先にゆき 跡に残るも同じ事 つれて行ぬを別とぞ思ふ」の2つの辞世の句を残したとされる。

 

硫黄島、摺鉢山

 

●心に強く訴えるもの

 そこで、新渡戸稲造の『武士道』における「辞世の句」の位置づけを見てみると、常に死を覚悟している武士の生き方と、辞世の句の関係が興味深く描かれている。

『武士道』の第4章「勇気・敢為堅忍の精神」の後半で、新渡戸は、死に臨んだ二人の武士について述べている。

 一人は太田道灌どうかんだ。太田道灌は、1432年(永享4年)に扇谷上杉おうぎがやつうえすぎ氏の家臣であった太田道真の子として生まれ、江戸城を築城したことでも知られる。実力者として、扇谷上杉氏に代わって相模・武蔵両国を事実上支配していたが、1486年(文明18年)、主君である上杉定正の糟屋の館に招かれて謀殺されるという不運な死を遂げた。

 新渡戸が取り上げているのは、その際のエピソードである。

 道灌を襲った刺客は、道灌が歌人として名高かったので、上の句「かかる時さこそ命の惜しからめ」と刺しながら詠んだが、息を引き取ろうとしていた道灌は、脇腹の致命傷にひるまず、「かねて無き身と思い知らずば」と下の句を続けたという。

 二人目は安倍貞任さだとうである。安倍貞任は、1019年(寛仁3年)に安倍頼時の子として生まれ、1051年(永承6 年)に、父とともに朝廷に反抗し、陸奥守藤原登任なりとうの軍を破り、次いで着任した源頼義に帰順したものの、後に反抗し、前九年の役を起こした。

 その際、衣川の戦いで逃げようとする貞任に、源義家が「きたなくも敵に後を見するものかな、しばし返せや」と呼ばわったので、貞任は馬を止め、義家は「衣のたてはほころびにけり」と大声で詠みかけた。

 すると、貞任は従容として「年を経し糸のみだれの苦しさに」と詠み返し、敵に激しく追われながらも、心の平静さを失わない貞任のような豪胆な勇士を、恥かしめるにしのびない、と義家は引き絞った弓をゆるめ、貞任が逃げるのに任せたという。

 武士は、死を覚悟しているからこそ、いかなる状況においても冷静沈着、歌を詠むくらいの心の持ちようを求められていた。生涯をかけて磨きに磨かれたその精神性の高みが、「武士の本懐」ともいうべき辞世の句に凝縮されていったと言えよう。

 武士の世だけでない。第二次世界大戦末期、圧倒的多数の米軍が上陸した硫黄島で死闘を繰り広げた日本軍を指揮した栗林忠道中将は、3月16日に大本営へ決別電報を発したが、その中の最後に3首の和歌を添えている。

 そのうちの一首では「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」と詠っている。このような、絶望的な状況の中でも和歌に託す武人の誉れは、辞世の句に遺されているからこそ、私たちの心に強く訴えるものがある。

 日本人一人一人が、常に冷静沈着、辞世の句を詠める精神性の高みを目指すとき、それは、我が国のゆるぎなき精神的な支柱が築かれることにつながるのではないだろうか。

参考文献
新渡戸稲造 須知徳平訳 『武士道』 講談社
初田景都 大友宗哉 『サムライたちの辞世の句』 辰巳出版
梯久美子 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』 新潮社

 

(令和4年9月7日)

 

 

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