川上和久 –「義理」という言葉――本来の意味を取り戻そう
川上和久
麗澤大学教授
●「義理」が意味するもの
前回は、新渡戸稲造が『武士道』の第3章「義または正義」の中で述べている「義」について掘り下げてみたが、新渡戸は、この第3章の中で、「義」に関連して「義理」についても述べている。
「義理」という言葉、最近では、誤用というほどではないが、「義理」二面性をもって語られている。
辞書では、「義理」の第一義は「物事の正しい道筋。また、人の踏み行なうべき道。道理」とある。これは、ほぼ「義」と同義であり、新渡戸も、「義理は義から出て、はじめはその元の意味から、わずかにしか離れていなかった」と述べている。
しかし、「次第に離れていって、ついには俗世間で誤り用いられるようになり、本来の意味は曲げられてしまった」とも続けている。
第二義として、「職業、階層、親子、主従、子弟などのさまざまな対人関係、交際関係で、人が他に対して立場上務めなければならないと意識されたこと」と出ている。2月14日のバレンタインデーに、職場の関係で仕方なくチョコレートを贈るような行為を「義理チョコ」というが、あの言葉が使われるようになった影響で、「義理」というのは、「本来やりたくないのだが、世間のしがらみでいやいやすること」というような、きわめてネガティブな意味合いが付加されてしまったように感じる。
もちろん、新渡戸の時代に「義理チョコ」などあろうはずがない。それどころか、新渡戸が生きていた時代には、バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣すらなかった。
もともとバレンタインデーにチョコレートを贈ることを思いついたのは、チョコレートメーカーだったようだ。バレンタインデーは、言うまでもなく、歴史的には海外の行事で、西暦1207年2月14日に、ローマ皇帝クラウディウスが結婚を禁じたのに反抗して殺された、聖人バレンチヌス(バレンタイン)を祭る日が2月14日で、「恋人たちの日」として祝われていた。これに神戸のチョコレートメーカー「モロゾフ」が目を付け、1936年に外国人向けの英字新聞に「愛の贈り物としてチョコレートを贈りましょう」というチョコレートの宣伝を掲載したのが起源で、新渡戸の死後3年を経ている。
他のチョコレートメーカーも追随することで定着し始めたのは、1960年代から1970年代のことだ。
●あるべき正しい道
「義理」は、半ば悲劇的に用いられる言葉ともなった。往年の名俳優高倉健が主演の映画『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』。高倉健自身が歌う『唐獅子牡丹』の中に、「義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい男の世界」という歌詞がある。ここでは、「義理」が、果たすべき「義務」のような意味合いでも使われている。
実際、新渡戸も「義理という言葉が、本来もっている純粋な意味は、単純で明快な義務のことであった。したがって、両親や目上の者や目下の者からはじまって、一般社会などに義務を負っているという、その義理はすなわち義務という意味であった」と述べているし、「もし人が、義務を重荷と感じ、それを嫌うならば、義理がただちにあらわれてきて介入し、その人が義務を怠ることを妨げるのである」とも述べている。
新渡戸は、義理が誤用されることによる危険を、イギリスの作家・ウォルター・スコットの愛国心に関する誤用への警鐘、「愛国心は、最も美しいものであると同時に、しばしば、似て非なる他の感情の仮面としてあらわれるもっとも疑わしいものである」を引いて説明している。
ウォルター・スコットは1771年にスコットランドのエジンバラで裕福な弁護士の子に生まれたが、幼児期に小児麻痺となってしまった。文学書に親しながらエジンバラ大学の古典学科に入学したが、2年目に病気中退。父の法律事務所で勉強して、21歳で弁護士となった。
著作活動のはじめは詩作であった。彼は1805年の創作詩『最後の吟遊詩人の歌』が認められたが、その後は小説に転じ、『ラマムアの花嫁』『アイバンホー』『ケニルワースの城』など多くの歴史小説を発表し、1832年に没している。
「臆病でためらいがちな人間にとっては、一切は不可能である。なぜなら一切が不可能なように見えるからだ」「健全な頭、正直な心、そして謙虚な精神は3つの最良のガイドとなる」など数々の名言を残しており、新渡戸もその著作に親しんでいたのだろう。
「愛国心」も「義理」も、あるべき正しい道である。
ところが、それが、ネガティブな意味合いで人口に膾炙するようになると、本来のあるべき正しい道、というイメージが毀損されてしまう。
ロシアの理不尽なウクライナ侵攻によって、あらためて、我が国においても「愛国心」が、一部の勢力による誤ったレッテル貼りで喧伝されるような言葉ではなく、正しい道であることが認識されるようになることを願いたいが、同時に、「義理」も、誤用でネガティブな意味合いが増幅されることなく、「果たすべき正しい義務」として、新渡戸の『武士道』の時代から100年以上を経てはいるものの、再評価され、本来のポジティブな意味合いを取り戻すことを願って止まない。
(令和4年7月2日)
※道徳サロンでは、ご投稿を募集中!