髙橋史朗67 – 経済成長から心の成長へ向かう「地球倫理」時代の到来――新たな兆しの中で伝統の「創造的再発見」を!
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団 道徳科学研究所教授
●「ウェルビーイング」と「仕合わせ」の意味
本連載62で取り上げた「ウェルビーイング」という言葉が初めて登場したのは、1946年に設立されたWHO(世界保健機関)の憲章において、「健康とは、単に疾病や病弱な状態ではないということではなく、身体的、精神的、そして社会的に完全に良好ですべてが満たされた状態である」と定義づけられた中の、「満たされた状態」がwell-beingであると、WHOの設立者の一人である施思明(スーミンスー)氏によって提案されたものである。
well-beingは直訳すると「良好な状態」であるが、最近は「満たされた状態」と訳されることが多い。狭い意味の心身の健康だけでなく、心が豊かな状態である幸福と、社会の良好な状態をつくる福祉を統合した、心と身体と社会の良好な状態がウェルビーイングである。ちなみに、SDGsの目標3「Good Health and Well-Being」は、「すべての人に健康と福祉を」と訳されている。
もともと健康を土台としていたウェルビーイングという言葉を近年「幸せ」の観点から捉え直す傾向が強まっている。日本語の「幸せ」はもともとお互いが相手や周りのために仕え合うことを意味する「仕合わせ」が語源で、自分の欲しい物を手に入れることではなく、信頼している人に喜んでもらえることを意味していた。
仏教に「後楽」という言葉があるが、自分勝手な幸福を求めるのではなく、相手や周りの人が喜ぶ姿を見て、最高の喜びを感じる「後楽」を味わうことが、本当の「仕合わせ」すなわち「幸せ」なのである。英語のハッピーとは語源が異なる点が興味深い。
●「幸福学」「ウェルビーイング」の学術研究
幸福学研究の第一人者である慶応義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長の前野隆司教授(ウェルビーイング学会会長)によれば、「心理学による幸せな状態に関する分析研究」を幸福学と呼ぶ場合もあるが、幸せなものづくりや、人々を幸せにする家づくり・町づくり、あるいは人々を幸せにする新しいサービスや会社の組織、幸せな教育等といった領域、さらには心理計測とは別に脳神経科学、脳神経倫理学、情報科学に基づくAI(人工知能)や脳計測等も含めて「幸福学」の対象と考えているという。
つまり、心理学的な基礎研究から、脳科学、教育学、倫理学、工学や地域活性化、創造性や感性等のあらゆる分野で人々のより良い生き方や働き方に関する研究まで、すべてを含めて「幸福学」ないし「ウェルビーイング」の学術研究と定義しているわけである。
米ペンシルベニア大学のマーティン・セリグマン教授が創設した「ポジティブ心理学」もこれに近い学問分野で、予防医学として、ポジティブ(積極的)な心の状態の人も、よりポジティブになる研究をすべきだということで始めた応用心理学の分野である。ポジティブな心の状態を高めるということは、ウェルビーイングすなわち「心が華やかで前向きの状態を目指す心理学」(前野隆司・前野マドカ『ウェルビーイング』日本経済新聞出版)である「幸福学」に近い。
●SDGsとウェルビーイングの関係
1980年代以降、well-being&happinessの研究論文が急増し、幸せな人は創造性が3倍高く、生産性も1.3倍高いこと、寿命が7年から10年長くしかも健康であること等が明らかになり、ウェルビーイング研究への注目が高まった。
ところで、SDGsとウェルビーイングとは一体どのような関係にあるのか。2030年までの世界の行動指針であるSDGsの目標の3番目の「Good Health and Well-Being」では前述したように、ウェルビーイングは「福祉」と訳されているが、この扱いからすると、ウェルビーイングはSDGsの一部と見ることもできるが、前野教授によれば、「健康、幸せ、福祉」を包含したウェルビーイングの概念は、地球規模でより良い社会をつくるという17のSDGsの目標全体を包括する上位概念であるという。
第5期科学技術基本計画で新たに提唱された「ソサイエティ5.0」は、サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させたシステムを用いて、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会を目指しているが、ウェルビーイングと深い関係にある。
狩猟採集社会がソサイエティ1.0、農耕社会が2.0、産業革命による工業化社会が3.0、そして情報化が4.0で、「ソサイエティ5.0」はこれまでのあくなき拡大路線から「調和」を目指す社会への転換を目指しているという。
●人類史における拡大・成長と定常化のサイクル
「人間についての探究」と「社会に関する構想」の架橋を目指す京都大学心の未来研究センターの広井良典教授は、持続可能な福祉社会を「定常化社会」と呼び、「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」を提唱している。
同教授が描いた「人類史における拡大・成長と定常化のサイクル」によれば、20万年前に誕生した人類は、狩猟採集で生活(ソサイエティ1.0)し、食料が潤沢な間は人口が増えるが、食料に対して人が増えすぎると増加は止まり定常化する。
そこで農耕が始まり、再び人口は増加(ソサイエティ2.0)し、やがて農業にも限界がきて定常化する。次に工業がおこり産業革命を経て情報化・金融化へと続くソサイエティ3,0、4.0となり、再び人口が増える。その後に地球環境の限界が到来し、日本も少子化が進み定常化に向かう。
人類史的に見ると、定常化の社会は衰退社会ではなく、一度目の定常化社会は「心のビッグバン」といわれる5万年前であるが、人類が壁画などの芸術を発明した時期であった。農耕による経済成長にも限界が来て、二度目に定常化した紀元前5世紀前後は「枢軸時代」と呼ばれ、ギリシャではソクラテス、プラトン、アリストテレスが活躍し、インドではブッダ、中国では孔子、孟子、老子、荘子が輩出した「精神革命」の時代であった。
このように定常化の時代は、思想が芽生え、芸術が栄え、文化が花開く時代であり、三度目の定常期は経済成長から心の成長へと向かう豊かな成熟期といえる。世界に先駆けて人口減少が起きている日本は、人類史20万年における3回目の定常化への曲がり角を最初に曲がろうとしている国といえる。
人口増加時代と定常時代は経済成長時代と心の成長時代といえ、経済成長から心の成長へというステップを2度繰り返した後の、3度目の心の豊かさを目指し、人間性を高める時代の先頭に日本は立っているといえる。
●「地球倫理」とGNH・GDWの新たな指標
2015年から始まったSDGsの次のゴールはウェルビーイングのゴールであり、経済成長重視の時代からウェルビーイングの時代への大きな転換点に立っているといえる。従来のモノによる経済的繁栄を目指す時代から、自国の利益を超えた「地球倫理」を重視した心の成長を目指す時代への転換が求められている。
「精神革命」の時代に続く新たな思想である「地球倫理」とは、「地球上の各地域に存在する思想や宗教、自然観や世界観等の多様性に目を向け、それらが成立した背景や環境なども含めて尊重する思想である。
さらには、自然の具体的な事象の中に、単なる物質的なものを超えた何かを見出す自然観、すなわち、自然は生きていて、内発的なパワーが内在していると捉える「アニミズム」とも呼ばれるわが国の原初的な自然信仰や「八百万の神々」の日本神話の知にも通ずる。
心の成長を目指す社会は、感性や創造性に訴えかけ、他者とのつながりを大切にする社会であり、武道、茶道、華道、仏道といった日本の伝統文化、伝統芸能や伝統工芸などに寄り添ったものであり、それらを金銭的欲求を満たすためだけに展開するのではなく、地球環境への配慮を含めた社会性や公共性、人々の文化的な生活の質を高める方向へとシフトしていくことが求められている。
ブータンが1970年代から提唱している「GNH(グロス・ナショナル・ハピネス=国民総幸福量)」や、2010年にフランスのサルコジ大統領の委託を受け、ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツやセンといった著名な経済学者が経済指標であるGDPに代わる指標について刊行した報告書も踏まえる必要がある。
この経済指標では測れないGNHやGDWという幸福やwell-beingの新たな指標を導入し、一人ひとりが幸せに生きるための生き方、仕事、働き方とは何かという視点への転換が求められている。
●経済成長重視からウェルビーイング重視への大転換の兆し
鈴木寛 東大・慶大教授は、時代の大きな転換を「卒近代」と呼び、実業家の原丈人氏は「公益資本主義」と命名しているが、周りの世界と地球への配慮を重視する資本主義に転換すべきという主張は共通している。ハーバード大のマイケル・サンデル教授や千葉大大学院の小林正弥教授は、共同体主義への転換の必要性を訴え、京大の内田由紀子教授は「集団的幸福」、慶大の宮田裕章教授も同様にco-beingと協調的・調和的な生き方の大切さを強調している。
国内外の分野が異なる各界で、経済成長重視の時代からウェルビーイング重視の時代への大転換の兆しが見られる今日、21世紀を切り拓く教育課題は一体何か。
新たな教育課題のキーワードは、「常若(とこわか)」と「幸和(幸福と調和)」である。詳細については本連載60「『常若(とこわか)』の思想を世界へ発信する宗像国際環境会議」と同連載62「ウェルビーイングを『幸和』として捉え直し、道徳教育の実践化を目指す」を参照されたい。
「和して同ぜず」の和の精神は、「和(やはらか)なるを以て貴しと為し」と定めた聖徳太子の17条憲法を初め、歴代天皇が最も大切にされてきた「国柱」の伝統精神でもあり、美智子皇后陛下(当時)は明治神宮御鎮座80年の折に「外国の風招きつつ国柱太しくあれと守り給ひき」と詠まれている(同連載59「一人ひとりが『志を遂げ』『処を得る』国」参照)。6月5日の伝統の日「感謝の集い」で放映されるシンポジウム「家族の絆と伝統の創造的再発見」で、「伝統の創造的再発見」のビジョンについて問題提起するので見ていただければ幸いである。
(令和4年5月16日)
※髙橋史朗教授の書籍
『WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と「歴史戦」』
『日本文化と感性教育――歴史教科書問題の本質』
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