中山 理 10 – 現代の日本人が胸に刻むべき古の武士の箴言 ②
―非・理・法・権・天はこれ真理なり―
中山 理
モラロジー道徳教育財団特任教授
麗澤大学・前学長
麗澤大学大学院特任教授
●「法」ではなく「権」を信奉する隣国に囲まれた日本
ウクライナ問題は日本にとって決して対岸の火事ではありません。というのも日本はウクライナ以上に「法」よりも「力」を信奉する国々に囲まれているからです。ウクライナの場合、対峙すべきはロシア一国だけですが、日本の場合は同国に加え、同じようなイデオロギーを持ち、同じような核兵器を備え、同国と深い外交関係にもある二国、中国と北朝鮮が控えているのです。ある意味で日本の安全保障は、ウクライナ以上に深刻な脅威に曝されていると言っても過言ではないでしょう。
まず中国は「法」のレベルにおいても、常任理事国の特権を乱用し、自国の「力」を行使するためだけの「法」まで制定する大国です。一例を挙げれば、中国の制定した「海警法」は、海洋法秩序の一般法として定着している国連海洋法条約の条項に違反するものであり、明かに国際法違反の法律です。
またこの大国が「法」よりも「力」の信奉者であることは、2016年、フィリピンが南シナ海の領有権問題をめぐり国連海洋法条約に基づいて仲裁手続きの申し立てた際、仲裁裁判所が示した判断を「ただの紙くずだ」と批判してつっぱねた強硬姿勢を見てもわかります。
つぎに北朝鮮は日本人拉致という重大な人権侵害を犯しているだけでなく、21世紀に核実験を行った唯一の国でもあります。このような深刻な国際法違反を何度も繰り返しながら、ICBM級弾道ミサイルの開発や実験などに嬉々として取り組み、敵視する諸外国を恫喝しようとする国もまた「力」の信奉者以外の何者でもありません。
では、これらの国々が日本の平和と安定に対して重大な脅威を与え続けている現状に対し、わが国はどのように対応してきたのでしょうか。それらが日本国の安全にとって大きな脅威であっても、「遺憾である」とか「厳重に抗議する」とかの政府声明を発表するだけでは(もちろん、すべきですが)、実質的な抑止力にはなりません。そのような日本の姿勢を揶揄してか、つぎのようなジョークを耳にしたことがあります。
「日本は、NATO(北大西洋条約機構)に加盟しているのですか?」
「いや、していません。どうしてそう思うのですか?」
「だってあなたの国はNo Action Talking Onlyの頭文字をとってNATO、すなわち『行動せずに話すだけ』かと思いまして……。」
この種のジョークに対して「いや、現実はもっと深刻で、行動(action)どころか、日本の国民と国土をいかに守るかについて実質的で実務的な議論(talking)さえできないのです」と応えるしかないのでしょうか。
●見逃してならない正成の「天」の一字
最後に、これまでの「非」「理」「法」「権」にまつわる問題提起をふまえたうえで、それら以上に強調しておきたいことをお話ししたいと思います。それは、楠木正成が「非」「理」「法」「権」のレベルにとどまらず、さらにその上に「天」の一字を掲げていることです。廣池が正成の五語はこれ真理なりと喝破したのも、やはりこの「天」の一字に重要な意味があるからではないか、と筆者には思えるのです。
というのも、「非」・「理」・「法」・「権」の上に「天」を掲げた軍旗そのものが、正成がただの勇猛果敢な武士ではなかったことを雄弁に物語っているように感じられるからです。南北朝時代の軍記物語である『太平記』でも、正成の人となりについて「智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、いにしへより今に至るまで、正成ほどの者はいまだ無かりつるに……」と描かれています(『太平記』(三)75ページ)。すなわち、智仁勇の三徳を兼ね備え、死をもって善道を守る者は、古より今にいたるまで正成ほどの人物は他に輩出されていないというのです。智仁勇の三徳とは、何が正しいかを知る「智」、他者に対する慈愛の心の「仁」、勇気をふるって果敢に挑戦する「勇」のことです。
また、正成は智謀や知略を駆使して敵を翻弄する猛者であっただけでなく、終始一貫して後醍醐天皇を支えた古今未曽有の「忠臣」でもあったと伝えられています。ここに正成が「権」の上に「天」を掲げた理由が潜んでいるような気がします。
いずれにせよ廣池も指摘しているように、最後の勝利者は「権」の座の上に胡坐をかく独裁者ではなく、謙虚な気持ちで「天」に従って行動する有徳者だということでしょう。
●私たちにとって「天」とは
では、現代において「天」に従うとは具体的に何をすることでしょうか。いうまでもなく、一言ではとても言いつくせない難しいテーマですが、あえて誤解を恐れず申し上げれば、万物を潤し恵み育てる宇宙自然の法則に従いつつ、そのような天の働きを助ける人としての道を歩むことではないでしょうか。すなわち、どのようなことをするにも、つねに天道に想いを馳せ、一視同仁の慈愛の心で自他をともに生かすような高いモラルを実践することではないかと筆者は考えます。
もちろん、だからといって「理」「法」「権」を軽んじているのではありません。それらの諸力は平和な社会を実現するために必要不可欠な要素です。問題はそれらを何のためにどのように使うかということであり、その動機・目的・方法の道徳性が問われているのです。
自分に備わる諸力を他者のために役立てるという道徳的発想を持てば、それらは自他ともに大きな好効果をもたらすことになるでしょう。それに反し、いかに高い学力や知力、あるいは豊かな金力や強い権力があっても、それらを利己的に悪用すれば、その諸力のスケールが大きい分だけ、自分のみならず社会に与える悪影響も大きくなるのです。これが国家レベルとなると、世界の人々を不安と恐怖に陥れるような由々しき問題になります。
いかに強大な金力や権力を持とうとも、それを社会のために役立てるモラルがなければ、持続可能なウェルビーイングは実現できないのです。私たちの諸力の根本にそれらを活かす「天」の心があってこそ、真の勝者への道が拓かれるのではないでしょうか。わが国も正義と平和を実現するための「理」「法」「権」をしっかりと身に着けながら、天に従う道を歩む国家、国民であってほしいと願うのです。
*最後に、このエッセイの内容は筆者の個人的意見であり、必ずしも本財団の見解を反映したものではないことをお断りしておきます。
【参考文献】
廣池千九郎(1928、2012)『道徳科学の論文』(9)公益財団法人モラロジー研究所
山下宏明校註・訳(1977~1988)『太平記』(1~5)『新潮日本古典集成』新潮社
George Orwell. (1945). Notes on Nationalism. The Orwell Foundation (https://www.orwellfoundation.com)
(令和4年5月2日)
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