西岡 力 – 道徳と研究26 「あきらめない 飯塚繁雄さんお別れ会」
西岡力
モラロジー道徳教育財団教授
麗澤大学客員教授
北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)の二代目代表の飯塚繁雄さんが昨年12月になくなられた。新型コロナウイルスの蔓延などのため葬儀は家族葬で行われたが、家族会・救う会・拉致議連は3月12日に東京・砂防会館別館で「あきらめない 飯塚繁雄さんお別れ会」を開催した。
私は救う会会長として司会を務めた。会には、家族会メンバー、岸田文雄総理大臣、菅義偉前首相、松野博一拉致問題担当大臣兼内閣官房長官、大野元裕埼玉県知事、古屋圭司拉致議連会長をはじめとする国会議員50名あまり、多数の地方議員や各地で救出運動に取り組むボランティアなど合計400人余りが参席した。今回はその様子を報告する。
祭壇の上に大きく「あきらめない 飯塚繁雄さんお別れ会」という看板を掲げた。その理由は、飯塚さんが、去年の11月13日の国民大集会でなさった挨拶にある。それが公の場での最後の訴えになった。その1週間くらい後に入院されて、そのまま家に帰ることもなく12月18日に逝去された。
国民大集会では、体調がよくなくて挨拶をされた後すぐ中座してお帰りになった。無理を押してなさった最後の訴えだった。その中で私たちに残してくださった言葉が「あきらめない」だった。約6分の挨拶の中で3回、「あきらめない」という言葉があった。
●拉致問題の解決に向けて
お別れの会では飯塚さんの挨拶のビデオをみなで見た。本コラムの前々回「道徳と研究24 「諦めない」―― 飯塚繁雄さんの逝去」でその挨拶全文を掲載した。ここでは「あきめない」と言われた部分のみを再掲する。
「拉致問題は今となってはあきらめるわけにはいかないのです」
「この問題は絶対にあきらめられないという思いを皆様方が背負っていただいて、何が何でも解決するのだという意気込みを頂きたいと思います」
「我々があきらめないことこそ解決につながる」
岸田首相をはじめとする参列者はこの訴えを、襟を正して真剣に聞いていた。この3月で家族会、救う会ができて25年になる。横田滋さんが約11年間、最初の厳しい時期を含めてですが、代表を務めてくださったが、その後14年間飯塚繁雄さんが代表を務めてくださった。横田滋さんよりも長い期間、代表として救出運動を引っ張ってくださった。
代表献花の後、最初に、三代目の家族会代表に昨年12月に就任した横田拓也さんが挨拶した。その主要部分を紹介する。
1997年に家族会が結成された際、私の父滋が初代の代表に就き、11年間最前線で声を上げ続け、全国を駆け回りました。その後、飯塚繁雄さんに代表職をお引き受け頂き、国内外に拉致問題解決の重要性を訴え続けて頂きました。また常に冷静に、そして穏やかな姿勢で家族会を纏め、14年もの長い間私達を牽引して下さいました。誠に有難うございます。
飯塚繁雄さん、私達はあなたが田口八重子さんを北朝鮮から取り戻し、日本の地で再会する事をどれだけ強い信念で願っていたかという事を痛いほど承知しています。また、その気持ち以上に飯塚耕一郎さんに母八重子さんとの再会を果たし、再び家族の絆を取り戻したいと願っていた事を承知しています。身を粉にして最前線で戦い、日本政府に救出するための工程表を策定するよう強く求めてこられました。それにも関わらず、「会いたい」「会わせたい」という当たり前の願いは叶えられることなくご逝去され、共に戦って来た一人として、無念でなりません。心より哀悼の意を表します。
昨年12月18日に突然の訃報を聞いた際、私は動揺を隠す事が出来ませんでした。どうしてこの様な悲しい目に遭わなくてはならないのかと自問自答しました。何故、北朝鮮に拉致された全ての被害者を日本政府は救出する事が出来ないのか、何故これだけ長い年月が経過していながら5人の拉致被害者の方々以外の多くの私達の家族を北朝鮮に人質として拘束されていながら、加害者である北朝鮮の先軍政治に目を瞑り、人権侵害を放置しているのかと。深い悲しみと共に、静かな怒りを抱きました。
何度も自問自答しました。苦しく、悲しい気持ちをどの様に抑えるのか悩みました。そんな時、飯塚繁雄さんが常に上を向いて歩を進め、「諦めない」と言う強い言葉で私達に語って下さっていた事を思い出しました。残された私達が下を向いていてはいけない、泣いている場合ではない。もし私の目の前に飯塚繁雄さんが今もいらっしゃれば、きっと「前へ!」とおっしゃっていた事と思います。
家族会は諦めません。絶対にこの北朝鮮との戦いに負ける訳にはいきません。「正義」と「邪悪」との戦いに必ず終止符を打ち、拉致された全ての被害者を日本に取り戻すべく、言葉を武器にして戦い続けます。そっと空から見守っていて下さい。
本日、このお別れの会に岸田総理にお越し頂いています。
北朝鮮は金正恩委員長以外の誰一人、決裁権を有していません。日本人拉致問題を解決させるには、金正恩委員長と直接向き合い、全面解決を図るしかありません。
私達家族会・救う会の揺るぎない活動方針を改めてこの場で申し上げます。段階的・部分的解決は一切望んでいません。拉致被害者の安否が分からないとする欺瞞の前提に立った「調査委員会」や「連絡事務所」の立ち上げも求めていません。「全拉致被害者の即時一括帰国」のみを求めています。
拉致問題を解決出来れば、日本は幸せを再び取り戻す事が出来ます。同時に、この長くかかった人権侵害問題を金正恩委員長の英断で解決させられれば、北朝鮮にとっても明るい未来が訪れる事を、強く総理ご自身の言葉でメッセージとして発して欲しいと思います。
残された親世代の拉致被害者家族はとても高齢です。正に時間が残されていないのです。皆が元気な内に、解決を図って下さい。
飯塚繁雄さん、これまで大変な心労の中で代表職をお務め頂きました。八重子さんとの再会が出来なかった事は誠に残念ですが、苦しいストレスから少しだけ解放され今はゆっくりした時間の中で私達の姿を見守って下さっている事と思います。
私は三代目の家族会の代表として精一杯声を上げて参ります。日本政府に早期の救出を求め続けます。金正恩委員長に双方が平和な答えを得られるよう粘り強く求めて参ります。いつも私の心の中の勇気と共にいて下さい。本当にこれまで有難うございました。
●飯塚さんに捧げる言葉
私も司会者として次のようなことを語った。
―― 私たちは、飯塚さんはいつもいるものだと、お願いすればなんでもしてくださると思ってきた。私が、拉致に関してこういうことをしますと言うと、「分かった」と言っていつでも時間を作ってくださって、身体がつらい中でも来てくださった。
14年間アメリカにも韓国にもジュネーブにも行っていただいたし、日本全国に行っていただいた。チャリティーコンサートがあるというと家族会を代表して感謝の言葉を5分述べるためにもいやな顔を一切見せず電車に長く乗って行ってくださった。
本当に、誠実な人柄で黙々と家族会・救う会の運動の中心で私たちを支えてくださった。最後の言葉が、「あきらめない」でした。我々があきらめないことこそ解決につながる、と訴えた。そういう言葉を残されて倒れてしまい、病床で後任の家族会代表もちゃんと決められて、そして天国に旅立たれてしまった。
妹の田口八重子さんらを救えないまま力尽きて天国にむかわれたとき、本当にあきらめきれない気持ちだったはずだ。私たちに後を託してくださったのだと思っている。だからこそ、私たちはあきらめることが絶対にできない。全拉致被害者を早く取り戻さなければならないという決意を、飯塚さんに今日みんなで捧げたいと思ってお別れの会を準備させていただいた。
飯塚さんの思い出はたくさんあるが、一つだけご紹介する。八重子さんのことについてなどを書いたご本を出されたことがあった。それを救う会会長の私ではなく救う会事務局に下さいました。そのとき「運動を支えているのは西岡さんのような目立つ人じゃなくて、事務をやっている人だ」と話された。そういう言葉を事務局にかけてくださったことを覚えている。
家族会代表として総理大臣に会われたり、大統領に会われたり、国連に訴えたりと、表舞台に立っておられた方ですが、支えている裏方がいるから自分ができているのだという心持をずっともっていてくださる。そういうお人柄の人だった。
家族会・救う会の国民運動、25年間と一言で言えば簡単ですが、色々なことがあった。人間だから様々なぶつかり合いもある。それが運動というものだが、14年間、飯塚さんがそのお人柄でこの国民運動を引っ張ってくださったから、わたしたちはここにいることができた。
もちろん全員を取り戻せていないという悔しさがあるが、それでもなんとかここまで来ることができたのだなあと思う。そして飯塚さんが「あきらめない」とおっしゃって、いまここにおだやかなお顔(祭壇写真)で私たちを見ている。
私たちは絶対あきらめることはできないと、今年本当に勝負をかけなければならないと思っている。全拉致被害者の即時一括帰国を実現させるために、すべての者が、一人ひとりの立場で全力を尽くすことを誓って、飯塚さんに捧げようではありませんか。――
●悲願への決意
岸田総理大臣をはじめとする主要参列者の挨拶が終わり、最後に田口八重子さんの長男で飯塚繁雄さんに赤ん坊の時に引き取られ、実子のように育てられた飯塚耕一郎さんが挨拶した。その主要部分だ。
先ほどビデオもありましたが、父は昨年11月13日にこの会場で講演した後、5日後に急遽体調を崩して入院してしまいました。そしてちょうど1か月後の12月18日に亡くなってしまいました。
入院当初はまだ意識がある状態で、そこで2枚のメモを書いていました。1つはただ「八重子」と書かれていて、はやり八重子さんのことは臨終の間際まで心の多くを占めていたのだろうと思っています。
12月初旬にはほぼ意識がなくなっていました。私はICU(集中治療室)で父の手を握りながら、これまで二人で歩いてきた活動を思い出していました。ある週末には東日本に行き、次の週末には西日本に行きという日々で、日本中あらゆる所にお伺いして講演をさせていただき、色々な方々にお会いしてご協力をお願いしてきました。
そのような活動を父は2002年から、私は2004年から約20年の活動が形となって、結果として親父によかったことを見せてあげられなかったこと、つまり八重子さんとの再会に至らなかったことに関しては、悔やんでも悔やみきれない気持ちです。
親父はきっと八重子さんと私が抱き合う姿を見て喜びたいと思っていたと思いますし、私は親父と八重子さんが抱き合う姿を見て喜びたいと思っていたと思います。ただただそういうことができなかったことが悔やまれてなりません。
そしてこの会場にいるすべての方々は、同じように「あきらめない」という気持ちを持ち、それを具体的な行動に移す必要があると思っていると思います。
「あきらめない」という言葉は、親父が再三再四使っていた言葉ではありますが、本来は拉致問題を解決したいと思っているすべての方々の意思を表している言葉だということに尽きると思います。我々は絶対にあきらめない。あきらめるわけにはいかない。
ですので、この言葉を具体的な行動に移して拉致被害者の即時一括帰国を実現し、親父と同じように再会できなくなる家族を増やしてはならないということを、皆さん心に誓いましょう。
そしてすべての拉致被害者を日本に返すよう北朝鮮に強く求め、我々がこの問題から解放され、明るい未来に向かって進んでいければなあと考えています。
今年こそ全拉致被害者の即時一括帰国という悲願をなんとしても実現させなければならないと決意を新たにしたひとときだった。
(令和4年3月18日)
※西岡 力 教授の新刊書
『わが体験的コリア論 ―― 覚悟と家族愛がウソを暴く』