川上和久 – 新渡戸稲造が論じた「義」とは?
川上和久
麗澤大学教授
幕末に評価された林子平
新渡戸稲造は、武士道の本質的な概念を論じるにあたり、『武士道』第3章の題名を「義または正義」(Rectitude or Justice)として、「義」を武士道の最初の概念として挙げている。
「義」の概念を論じるにあたり、新渡戸は、2人の江戸時代の人物の言葉を引用している。
その第一は、林子平の言葉だ。
「義とは、勇気を伴って為される決断力である。道理にまかせて決断をし、いささかもためらうことをしない心をいう。死ぬべき場合には死に、討つべき場合には討つことである」
林子平は、1738(元文3)年に生まれ、1793(寛政5)年に没しているが、幕臣であった父が浪人したため、叔父の林従吾に養われ、林姓を名のるようになった。兄が仙台藩に仕官することになり、1757年(宝暦7)年、仙台に居を移した。
1765(明和2)年には、仙台藩に『富国建議』を著して献じ、学制、武備、制度、地利、倹約などを説いた。林は、国政の第一は人材であり、人材は学問によって生ずるから、国政の第一は学政であるとした。
1786(天明6)年には『海国兵談』を完成させる。海国日本にふさわしい国防体制を論じた書であるが、1793(寛政5)年に不遇のうちにこの世を去ったのだった。しかし、18世紀の終わりころから外国の船がしきりに日本近海に表れるようになった中で、林子平の考え方が、幕末に向けて評価されるようになったのである。
ちなみに、この林子平と、高山彦九郎、蒲生君平は「寛政の三奇人」と呼ばれている。
高山彦九郎は上野国(現群馬県)の農家の生まれだが、13歳の時『太平記』を読んで、「建武の中興の志業の遂げられざるを見て、慨然と発奮」したとされ、18歳にして京都に遊学、その後全国を旅しながら、尊王の重要性を説き、多くの人々の敬慕を集め、1793(寛政5年)年に自刃してその生涯を閉じた。
蒲生君平は1768(明和5)年に下野国(現在の栃木県)の油商人の子供として生まれたが、江戸に出て高山彦九郎に私淑したり、林子平を訪ねたりしている。1798(寛政8)年には、歴代天皇陵の荒廃を嘆いて調査のため京都に上り、1801(享和1)年には、畿内諸国の山陵を踏査した結果である『山陵志』を完成させた。ロシアの南下政策を憂いつつ、1813(文化10)年に没した。
これら三奇人は、早くも寛政年間に、幕末に中心的な課題となる国防や尊王を、時弊を先取りして論じた共通性があったが、その中の一人である林子平の「義」をまず取り上げたところに、日露が緊張状態にある中での、新渡戸にとっての、武士道精神の在り方への思いが反映されているのかもしれない。
武士の節義 真木和泉
そして、新渡戸がその言葉を引用した2人目が真木和泉である。真木和泉は、「節義」という言葉で義を論じている。
「節義とは、例えていえば、人の体に骨があるようなものである。骨がなければ首も正しく胴体の上に坐っていることができない。それと同じように、人は才能があってもまた学問があっても、節義がなければ世に立つことはできない。節義があれば、不作法、不調法があっても、武士としてあるだけはこと欠かないものである」
真木和泉は、1813(文化10)年に、神官の息子として筑後国(現在の福岡県)に生まれ、久留米藩の神官となった。尊王攘夷の水戸学に心酔し、1861(文久1元)年には『義挙三策』を著して王政復古を説いたが、8月18日の政変で長州藩が京都を追われた際、七卿落ちとともに長州藩に逃れた。『出師三策』を著して軍事力による朝廷奪回を主張するが、1864(元治元)年に長州藩が京都に出兵し、薩摩藩・会津藩に敗れた「蛤御門の変」で、自刃して果てた。
ここでも新渡戸は、「尊王」の志を強く抱いていた真木和泉の言葉を取り上げており、林子平にしても真木和泉にしても、不遇の死を遂げてはいるものの、明治時代を築く礎となった考え方を後世に残した2人の「義」に対する考え方を紹介することで、彼ら自身も「義」に生きたことを行間に伝えようとしていたことがうかがわれる。
義に生きた武士 赤穂浪士
林子平と真木和泉も、「義」に生き、「義」を極めようとした人物であった。
その彼らが「義」を論じるにあたって、どちらの「義」についての言葉でも即座にイメージされるのが「赤穂浪士」だ。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは、1703(元禄15)年であるから、林子平や真木和泉が活躍する時代は、それから50年、100年経っている。
新渡戸も、「武士の生活に余暇が生じ、あらゆる種類の娯楽と技芸のたしなみが生じた。しかしそのような時代においてさえも、『義士』という言葉は、学問や芸術に長じた者に与えられるいかなる名称よりも、すぐれたものであると考えられていた」と、「赤穂浪士」たちが、単なる浪士ではなく、「義士」なのであると称え、
「陰謀が戦術として通り、戦術として通り、欺瞞が戦略として通っていた時代に、義士と呼ばれるこの正直で率直な男子たちの徳は、宝石のように光り輝き、人々の最も高く賞めたたえたものだったのである」
とも新渡戸は述べている。
「赤穂義士」の物語は、現代に至るも変わることなく「義に生きた武士」のもっとも誇るべき物語として語り継がれている。それとともに、林子平や真木和泉も、自らの信じる説を枉げず、時代に変化があっても尊王や国防という「かくあるべき」という信念を貫き通した。
林子平、真木和泉、赤穂義士。現代に生きる私たちも、彼らの生きざまを心に刻み、「義をもって生きる」尊さを考えたいものである。
参考文献
新渡戸稲造著 須知徳平訳 『武士道』 講談社
中村整史朗 『海の長城 林子平の生涯』 評伝社
安藤英男 『寛政三奇人伝』 大和書房
山口宗之 『真木和泉』 吉川弘文館
(令和4年3月10日)
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