中山 理 6 – 令和4年をグローバルな視点に立った歴史理解の元年に ①
中山 理
モラロジー道徳教育財団特任教授
麗澤大学・前学長
麗澤大学大学院特任教授
●「歴史総合」のスタートに期待する
これまで筆者は長年にわたって大学と大学院で英語、西洋文化・文学、比較文明・文化、モラル・サイエンスなどの科目を担当してきました。授業や講義を通して学生とともに真理を追究するのはとても有意義な体験ですが、ときどき大きな壁が立ちはだかり、楽しいはずの学びのプロセスが妨げられることがあります。
その一つが、自国の歴史や文化についての基礎的な知識を習得しないまま大学に入学してくる学生がかなりいることです。このような状態では、外国の言語や文化をより深く理解するために比較文化的なアプローチを取ろうと意気込んでも、授業の入り口で出鼻をくじかれることがよくあるのです。それはちょうど、まともな定規を使わないでモノの長さを正確に計ろうとするようなものです。
同じことが日本史についても言えそうです。もちろん、だからといって、日本史についての知識の欠如を学生の不勉強のせいにするつもりは毛頭ありません。というのも、他にもそのような深刻な事態を招いた原因があり、学生ばかりを責めるわけにはいかないからです。やはり最大のネックの一つはこれまでの高校の科目履修システムであり、世界史は必須科目なのに日本史は選択科目だったというカリキュラム上の問題があったことです。さらに、たとえ日本史を履修したとしても、それが世界史の中でどのように位置づけられるかについては、高校でまともに教えられていませんでした。
こう申し上げれば「それも含めて教えるのが大学の教養教育の役割ではないか」とお叱りを受けそうですが、新しい教養教育の在り方を追求すべき大学教育において、入学してからやおら日本史の基礎知識を学び始めるのでは「時すでに遅し」と言えるのではないでしょうか。以上のようなことから、高校教育で「歴史総合」がスタートすることには大きな期待を寄せているのです。
●注目すべき伊藤氏と廣池氏の対談
おりしも、この度、かくいう筆者の期待を高めてくれそうな教科書が上梓されましたので、その中から新歴史教科書の市販本を一冊ご紹介したいと思います。それは『世界の中の日本が見える 私たちの歴史総合』(明成社)という書籍ですが、まず興味をひかれるのは、同書の冒頭に「特別対談」が収載されていることです。この対談では、昨今の歴史教育を取り巻く時代の変化や歴史教育のあるべき姿について忌憚のない意見交換がなされています。
実は筆者自身も中学の歴史教科書の関係者の一人として名を連ねた経験があるのですが(育鵬社)、筆者の知る限り、教科書の市販本の冒頭でこのような興味深い対談が収載されるのは珍しく、それだけに良い意味で強いインパクトを覚えました。対談のタイトルは「令和新時代を切り拓く歴史教育の可能性」で、対談者はこの新教科書の代表著作者で日本近現代史研究の泰斗、伊藤 隆氏(東京大学名誉教授)とモラロジー道徳教育財団の理事長で高校の歴史を教えた経験もある廣池幹堂氏です。
一般にこの種の歴史の対談というと、えてして理論的な抽象論に陥りやすいものですが、両氏の場合は然にあらず、お二人の歴史教育や研究の実体験に裏づけられた深い見識が滲みでています。今までの日本の歴史教育が抱える構造的な問題についての共通認識の上に立ちながら、今後その諸問題をどう改善してゆくべきかについても具体的に分かりやすく論じられているので、拝読していて「なるほど」と膝を打つ個所がいくつもありました。
中でも共感するのは「歴史教育とは何か」という問いに対するお二人の考え方です。「歴史教育」とは「子供たち一人ひとりが持っている心のエンジンに火を点け、人生を切り拓いていくエネルギーを与えること」であるという廣池氏と「日本人であることの意味を考える学問である」という伊藤氏のご指摘はともに言い得て妙であり、筆者の心に強く響きました。
(令和4年3月2日)
※道徳サロンでは、ご投稿を募集中!