髙橋史朗 55 –「ジェンダー」「平等」「差別」の根源的意味を問い直そう
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所教授
麗澤大学大学院客員教授

『共同参画』2022年1月号
●「ジェンダー革命」を振りかざす内閣府
内閣府男女共同参画局の月刊誌『共同参画』1月号の表紙に漫画家・池田理代子氏のイラストを掲載し、「フランス革命の次は日本のジェンダー革命だ!」と書かれているのには度肝を抜かれた。
この「吹き出し」は、「今年も男女共同参画を力強く進めて行くという意気込みを表現」したものだと内閣府の編集者は解説している。
内閣府男女共同参画会議の有識者議員を4期8年務めたが、「ジェンダー革命」という言葉を目にしたのは初めてである。しかも内閣府男女共同参画局が編集した総合情報誌の表紙に掲載したのは、「日本のジェンダー革命」として、「男女共同参画を力強く進めて行く」という断固たる意思表明に他ならない。
同誌は冒頭に「スペシャルインタビュー」として、『ベルサイユのばら』『オルフェウスの窓』で有名な池田理代子氏と、林伴子男女共同参画局長との対談を掲載し、LGBT問題や選択的夫婦別姓問題などについて語り合っている。
池田氏は著作『クローディーヌ…!』の中で、女性として生まれながら男性の心を持ったクローディーヌというトランスジェンダーを取り上げている。林局長がそれについて「御慧眼に感服いたします」と述べ、「LGBTQに着目されたきっかけは何か」と質問したことに対して、次のようなやり取りが交わされている。
<池田氏:フランスのボスという心理学者の本にクローディーヌの症例が載っていて、「単にクローディーヌをトランスジェンダーとしてだけとらえることはできない。要するに違った性を持って生まれてきたのだ」というのが書いてありまして、それがヒントです。
林局長:そうだったのですね。今、日本ではLGBTQの理解増進法案ですら通らないという状況です。
池田氏:選択的夫婦別姓もそうですよね。いつまでも解決しない。日本だけが取り残されていくというのは非常に残念な思いです…
林局長:本当にそうだと思います>
「LGBT理解増進法」や「選択的夫婦別姓」という政府の重要政策に真っ向から反対する男女共同参画局の官僚のトップの正直な本音が吐露されているが、歴代の男女共同参画担当大臣たちが、こうした官僚たちを領導してきた姿を私は身近で見てきた。
●「ジェンダーフリー」を否定し、「女性学」を削除した第2次基本計画
歴代の男女共同参画担当大臣として、「ジェンダー」の視点をめぐって真っ向から奮闘されたのは山谷えり子参議院議員であった。5年毎に作成される男女共同参画基本計画(第1次計画は平成12年に策定)の第2次基本計画において、以下の改正が行われた。
<*「社会的性別」(ジェンダー)の視点:
- 1
- 「ジェンダー」は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている…男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられるものもあり、このようなものまで見直しを行おうとするものではない。社会制度・慣行の見直しを行う際には、社会的な合意を得ながら進める必要がある。
- 2
- 「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。
上記1,2について、国は、計画期間中に広く国民に周知徹底する>
さらに、ジェンダー学(女性学)についても、「大学の1/3では『女性学』が必修または選択必修となっている。学問というより、フェミニズムの正当化のイデオロギーである女性学を必修とすることの問題性を指摘し、今回の基本計画からは『女性学』を削除」した。
民主党政権下の第3次基本計画から「女性学」は復活し、全国の大学へ広がり、日本学術会議ジェンダー分科会提言が国連勧告にも大きな影響を与え、わが国の男女共同参画行政を思想的にリードしてきた(拙稿「日本学術会議の歴史認識・歴史教育・ジェンダー分科会提言の今日的影響と問題点」『歴史認識問題研究』第8号所収論文、参照)。
●「ジェンダー・フリー」教育の実態
一体なぜこのような改正が行われたのか? 平成17年度に文部科学省が全国の公立幼稚園・小学校・中学校・高校に対して実施した「男女の扱い等に関する調査」によれば、キャンプや修学旅行などで、男女同室で宿泊した学校は、小学校で345校、中学校で2校あった。内科検診などの身体検査が同室だったのは小学校で3644校あり16%を占めた。4年生でも105校にのぼった。
水泳時の着替えが同室なのは、小学校の45%を占める1万55校、4年生でも823校、6年生でも32校あった。体育時の着替えでは小学校の62%を占める1万3968校で、4年生で4791校、5年生で1678校、6年生で1346校に及んだ。
一方、名前を呼ぶ際に男女混合名簿で「さん」づけしている小学校は7289校(32%)、中学校は572校(5%)、高校は31校にのぼった。また、ひな祭りと鯉のぼりについての幼稚園調査によれば、46園が「男女平等に反する」として中止したという。
高校家庭科教科書『これからの家庭基礎』(一橋出版)のプロローグ「家庭基礎をどう学ぶか」には、絵本「ももからうまれたももこちゃん」の表紙と「鬼退治に行ったももこちゃんの見たものは、鬼と仲よく遊び、共生している子どもたちだった」と解説された「ジェンダーフリー」絵本の頁を掲載して、次のように書かれている。
<幼い頃感動し、今も心に残っている物語や絵本のなかには、女らしさや男らしさが描かれ、その主人公に共感を覚えて育つ。このことは、人生の最初にジェンダー意識を再生産する役割を果たすようです。ある生徒は、ジェンダーにとらわれない幼児に育ってほしいと、だれもが知っている『桃太郎』のお話を『ももからうまれたももこちゃん』と改題して、人間の生き方や可能性が女だから、男だからという理由で制限されないような絵本を創り、保育所の子どもたちに読んでもらったそうです。それは幼児の心のなかにどんな響きを与えたでしょうか…自分自身のなかに根強くしみついている「あたりまえのこと」にゆらぎをかけること。…身近な人との会話のなかで、ジェンダーに関連のあることばが気になり、なぜ?を考える>
「幼児期からのジェンダー平等」を掲げる「包括的性教育」の狙いもこの「ジェンダーフリー」絵本の狙いもまったく同じといえる。
●生き物の歴史から「ジェンダー」の積極的意義を問い直せ
本来「ジェンダー」という言葉自体はニュートラルな文法用語で、善悪の価値観を含むものではない。「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」という昔話は、男女を差別する固定的性別役割分担意識に基づくもの、と批判するが、そもそもこれは陰陽という男女の相互補完的な世界観(共に違いを活かし合う「共活」、違いを活かし合って新しい秩序を共に創る「共創」という在り方)を示すものであり、優劣とは全く関係がない。
「マルクス主義フェミニズム」に関する著書を2冊出版している「ジェンダー学」研究の先駆者・上野千鶴子東大名誉教授によれば、「なぜこんな新しい概念が生まれたかといえば、生まれつき決定されていると考えられるセックスに対して、ジェンダー(社会的性差)の多様性や変化の可能性を示すため」であり、「社会的に作られたものだから、社会的に変更することができる」ことを明確にするために、あえて「ジェンダー」という外来語を訳さずにそのまま使っているという。
ここに、男女の性差は常に男性が支配し、女性が抑圧されるという構造を持つというマルクス主義の理論が加わり、家族を含む人間社会の至る所にあるすべての現象に内在している「男女の定型」イコール「ジェンダー」をすべてを解体すべしという「ジェンダー・フリー」理論が出来上がり、全国に広がったのである。
つまり、「ジェンダー」という言葉を戦略的武器にして「男女平等」「男女共同参画」を主張すると、社会全体を変革する大きな破壊力を発揮することができるという訳である。「ジェンダー」という耳なれない用語がにわかに登場し、頻発されるようになってきた背景には、このような狙いや思惑が潜んでいたのである。
しかし、「ジェンダー」という言葉を武器にして「男女平等」を主張し、「差別の撤廃」を強調するが、「平等」も「差別」も仏教用語であり、仏教用語である「平等無差(しゃ)別」の意味、そもそも「平等」とは何か、「差別」とは何かを根本的に問い直さなければならない。仏教経典によれば、「平等」の原語の語幹であるsamaが「寂・静・平静」を意味することは示唆的である。全ての存在は時空的相互依存関係がある「諸行無常」「諸法無我」という「縁起」の「理法」に目覚めた「涅槃寂静」の境位が「平等」である。釈尊とその弟子たちが探求した「独立自由」は、「世界人権宣言」にうたわれている「所有の自由」ではなく、権利追求の自由から自由であることを意味している。その意味で、煩悩から解脱した「涅槃(ニルヴァーナ)」を「自由」と捉えた視点は重要である。「平等」や「自由」の根源的な意味をこうした仏教用語に遡って探求すれば、「マルクス主義フェミニズム」がいかに表層的な偏見であるかがわかるであろう(拙稿「道徳教育と宗教教育・仏教教育についての一考察」『日本仏教教育学研究(26)』参照)。「差別」についても同様である。人間存在の仕組み自体が「差別」で成り立っており、人間が生き延びるための基本認識が「差別」に他ならない。
早稲田大学の長谷川真理子教授は『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)において、「ジェンダーを作り上げてきた人間社会の歴史が仮に一万年あったとしても、有性生殖の歴史はそれよりずっと長く、30億年の歴史を背負っている」と指摘しているが、生き物の歴史にさかのぼって『性差』の問題を考える必要がある。「生命誌」を提唱する中村桂子氏にも共通した問題意識が見られる。
家族を異性愛との関係でとらえ、異性愛も社会的に構築されたものであり、家族はこの異性愛のもとに成り立っているから、家族の解体化、性規範の解体化を目指すというのが「構築主義ジェンダー論」である。これを批判する長谷川真理子教授は、「ジェンダー論は男が偉いという価値体系を引きずっている」と批判し、子供には母親が絶対に必要であり、母性を否定するジェンダー論はおかしいと主張している。
一方、埼玉大学の長谷川三千子名誉教授は、「ジェンダーなんか怖くない」「ジェンダーという言葉をフェミニストから奪い返せ」と主張し、「逆転の発想」で「ジェンダー」なしに人間は生きていけない積極的意義を明らかにして、むしろ、フェミニズムの「男女平等原理主義」の歪みを正すのに有効な概念として活用すべきだという。
結果「平等」を男女間に当てはめたのが「女子差別撤廃条約」第1条の「『女子に対する差別』とは、性に基づく区別、排除又は制限であって」という規定であるが、仏教用語や日本文化の感性という根源的な視点から、同条約が土台としている、国連が金科玉条にしている「ジェンダー」論そのものの問題点を明らかにし、国際発信していく必要があろう。その理論武装のための「ジェンダー問題研究会」を早急に立ち上げたい。
(令和4年1月14日)
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