西岡 力 – 道徳と研究24 「諦めない」――飯塚繁雄さんの逝去
西岡力
モラロジー道徳教育財団教授
麗澤大学客員教授
悲しい知らせを書かなければならない。12月18日午前1時48分、家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)前代表の飯塚繁雄さんが逝去された。同日午前2時に拉致被害者田口八重子さんの長男の飯塚耕一郎さんから第1報の電話をいただいた。
耕一郎さんは、「先ほど、飯塚家族会代表が亡くなった。11月中旬に入院したときから容体はかなり悪かった。家族葬を近親者だけで行う、静かな環境で葬儀ができるようにマスコミに取材を自粛してもらいたい。マスコミへのお知らせをメールしたから西岡からマスコミ各社に伝えてほしい」と話した。
寝ぼけ眼で電話を取った私は、驚きと悲しみで言葉が出なかった。その後、救う会事務局の実務者を電話で起こして、マスコミの窓口への連絡の手配を行い、家族会の横田拓也代表らにメールで、急ぎお知らせした。
●2代目家族会代表 飯塚繁雄氏
飯塚繁雄さんは83歳だった。飯塚さんは北朝鮮による拉致被害者田口八重子さんの長兄だ。1977年6月、一番下の妹である田口八重子さんが1歳の息子耕一郎さんと2歳の娘を残して突然失踪したとき、八重子さん以外の7人の兄弟で話し合い、耕一郎さんを飯塚さんが、2歳の娘を別の兄弟がそれぞれ引き取り、養子として育てることにした。
耕一郎さんは八重子さんのことを全く覚えていない。繁雄さんとその奥様を実の両親と思ってすくすくと育っていった。1987年11月、耕一郎さんが中学生のとき、北朝鮮による大韓航空機爆破テロ事件が起きた。その犯人の金賢姫が「自分は日本から拉致された被害者女性から日本人に化ける教育を受けた」という驚くべきことを自白した。金賢姫は、その日本人女性は李恩恵(リ・ウネ)と呼ばれていた、恩恵と自分は平壌郊外の招待所で20か月同居して日本語や日本の習慣などを学んだ、と語った。
この金賢姫証言により、日本人が北朝鮮に拉致されていることが証明され、翌1988年3月、参議院予算委員会で梶山静六国家公安委員長が、金賢姫の日本人化教官である「恩恵」をはじめ1978年夏に動機のない失踪をした地村保志、濱本(地村)富貴惠、蓮池薫、奥土(蓮池)祐木子、市川修一、増元るみ子3組6人のカップルらについて「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」とする歴史的答弁を行った(その経緯は新著『わが体験的コリア論』に詳しく書いた)。
日本警察は、すぐ捜査員を韓国に派遣し、金賢姫から詳しく聞き取りをして恩恵の似顔絵を作成し、全国にその似顔絵を貼って捜査したところ、埼玉県警が関係者の証言などを入手して、田口八重子さんであることを突き止めた。
ところが、そのことがニュースになると、心ない一部メディアは田口さんをテロ加担者という印象を与える記事を書き、飯塚さんの自宅を探し出して取材に答えることを強要した。前述の通り、耕一郎さんはそのとき思春期である中学生だった。まだ、繁雄さん夫妻は、彼に産みの母が別にいるという事実さえ教えていない段階で、マスコミにさらされると、深く傷つくと考え、一切取材に応じず、沈黙した。
耕一郎さんは繁雄さん夫妻の深い愛に育まれて、八重子さんについて自分が養子だと言うことに全く気がつかないまま成人して社会人になった。そして仕事の都合で旅券をとる必要ができて、戸籍謄本を取り寄せたとき、養子であることに気づいた。そのとき、繁雄さんは耕一郎さんに、八重子さんが拉致被害者であり、1歳の耕一郎さんを置いて北朝鮮に無理矢理連れて行かれたので、繁雄さん夫妻が養子にして育ててきたことを話した。そのとき、耕一郎さんは八重子さんの拉致という重い現実に驚いたが、それよりもまず養子であることを全く本人に気づかせないほど愛情たっぷりに育てられたことに強い感動を覚えたと後日述懐している。
ところが、2002年9月、小泉純一郎首相の訪朝のとき、北朝鮮はそれまで否定していた拉致を認め、八重子さんを含む8人については「死亡」と通報した。ところが、八重子さんの死亡の証拠として出してきた死亡診断書や交通事故調書は全部、偽物であることが判明した。そのとき、八重子を助けるという決意を固めた繁雄さんが名乗り出て家族会に入った。少し遅れて耕一郎さんも家族会に入って活動を共にした。
繁雄さんはすぐ家族会の副代表となり、初代代表の横田滋さんを支え、2008年に横田滋さんが体調を崩して代表を続けられなくなるや、家族会のメンバー全員と私など救う会の役員がお願いして2代目家族会代表になってくださった。そのときはまだ、繁雄さんはある企業の工場長をしていて多忙であり、3年間ならという約束で2代目代表を引き受けてくださった。しかし、余人をもって代えがたいという状況の中、14年間、家族会代表を務めてくださった。横田さんの代表在任期間は10年8か月だったから、それよりも長い年月、拉致被害者を取り戻すための国民運動の先頭に立たれていたことになる。
●飯塚代表がいたからこそ
公開の場での最後の訴えが11月13日の国民大集会での主催者挨拶だった(本コラム末尾に挨拶全文をつけた)。約6分ほどの挨拶の中で、飯塚さんは3回「諦めない」と語った。「拉致問題は今となっては諦めるわけにはいかないのです」「我々としては厳しい立場になりつつありますが、この問題は絶対に諦められないという思いを皆様方が背負っていただいて、何が何でも解決するんだという意気込みを頂きたいと思います」「我々が諦めないことこそ解決につながると感じます」。
この挨拶をした後、飯塚さんは集会を中座して帰宅された。その約1週間後に体調悪化のために入院され、そのまま回復せず18日に逝去された。田口八重子さんたちを救えないままの逝去、どれほど心残りだっただろうかと思うと言葉もない。
家族会代表を引き継いだ横田拓也さんは次のようなコメントを出した。
「飯塚前代表の訃報に際し、本当に残念でなりません。八重子さんに再会出来ず、無念であったと思います。ご冥福をお祈りします。一刻を争う問題です。拉致問題の解決を図るよう、日本政府に改めて強く求めます。遺志を受け継ぎ、全拉致被害者の即時一括帰国を実現するべく、原則論を曲げずに活動してまいります」
横田滋さん逝去のときもそうだったが、救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)会長として共に戦ってきた私は、戦場で横に立っていた戦友が敵弾にあたって倒れたような感覚を持つ。14年間、家族会代表として誠実に激務をこなしてくださったことに心から感謝している。本当にまじめな人柄だった。人の悪口を言うことを聞いたことがなかった。総理大臣や米国大統領など要人に何回も面会したが、心のこもった挨拶をいつもしてくださった。何回記者会見しただろうか。そのたびに丁寧な言葉遣いを崩すことなく、しかし言うべきことをしっかりと話された。飯塚繁雄代表がいたからこそ、拉致被害者救出の国民運動は多くの方々に支持されて、ここまでやってくることができたと実感している。
問題解決が遅れているために被害者本人と家族の高齢化が深刻化している。その意味で私たちは追い込まれている。しかし、このことは北朝鮮をも追い込んでいる。彼らが望む日本からの経済支援は、大多数の国民の賛成が不可欠だ。そのためには、先頭に立って戦ってきた家族と被害者が抱き合うことが実現しなければならない。親の世代の家族が亡くなった後、娘たちを帰国させても、なぜ、もっと早く返さなかったのかと怒りの声が湧き出て、日朝関係は改善しようがない。岸田政権はその事実を北朝鮮に確実に伝え、「全拉致被害者の即時一括帰国」を決断せよと迫り続けてほしい。諦めるわけにはいかない。
11月13日の国民大集会での挨拶が公開の場での最後の訴えだった。ここにそれを再録した。映像は以下で見ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=lTW97a_ClTM
この問題は絶対にあきらめられない
飯塚繁雄(田口八重子さん兄、家族会代表)
皆様、こんにちは。しばらくでございます。このところのコロナの感染騒ぎで、我々の活動も途絶えてしまった期間が長かったですね。なんとかしようという気持ちが、こういうことにさえぎられてできなくなった。
しかし、北朝鮮を取り巻く環境はさらに厳しくなってきていると感じます。拉致問題は今となってはあきらめるわけにはいかないのです。何としてもこの問題を解決しなければならないと。これは我々家族だけの思いではなくて、ここに来ていらっしゃる皆様をはじめ、国民全体の思いであろうと思います。
新しく総理になられた岸田総理は、この問題について「自分自身がこの問題ときちんと向き合う覚悟ができている」とおっしゃいました。総理大臣や拉致問題担当大臣が目まぐるしく変わり、その度に我々はお願いをしてきました。
しかしながら、結果は出ません。我々としては厳しい立場になりつつありますが、この問題は絶対にあきらめられないという思いを皆様方が背負っていただいて、何が何でも解決するんだという意気込みを頂きたいと思います。
今回特に、その思いをブルーリボンバッジに込めて、みんなで解決するぞというような意気込みでいきたいと思います。そして、今度こそは解決するぞという意気込みを持っていきたいと思います。
北朝鮮情勢については西岡力会長が話されましたが、我々があきらめないことこそ解決につながると感じます。今回選挙もありましたが、拉致問題は変わらない。我々の思いも変わらない。このことを是非くみ取っていただき、今日の集会からさらに一致団結して解決に向けて進めていきたいと思います。
それぞれ立場もあると思いますが、何とか答えが出せるように。私はよく、「日程表を作って、それに基づいて進めて、それなりの答えを出してほしい」と言いますが、計画を作り、そしてどうなったかの答えを出してほしいと思います。
難しい面もあると思いますが、この問題は解決という答えがでなければなにもならないと思います。是非とも皆様のお力を頂き、今後も進めていきたいと考えていますので、是非とも宜しくお願いいたします。ありがとうございました。
(令和3年12月25日)
※西岡 力 教授の新刊書
『わが体験的コリア論 ―― 覚悟と家族愛がウソを暴く』