川上 和久

川上和久 – 新渡戸稲造⑨ ―― 武士道と仏教

川上和久

麗澤大学教授

 

 

 

 前回、『葉隠』に見られた武士道を論じた際、『葉隠』を語った佐賀藩士の山本常朝が、湛然梁重和尚と深い親交があったことを記した。
「武士道」は、武士が生きた時代の宗教と無関係ではなく、むしろ、密接な関りを持ちながら形成されてきた。今回は、武士道と仏教について、新渡戸稲造の『武士道』をもとに考察したい。

 

 

●武士道の淵源とは……

 新渡戸稲造の『武士道』は、17の章からなっている。第1章は導入としての「道徳体系としての武士道」だが、第2章「武士道の淵源」で、武士道と宗教との関係を語っている。
 新渡戸がその冒頭で、武士道と関係が深い宗教として第一に取り上げたのが、仏教、その中でも禅である。
 新渡戸は、
「武士道の淵源をたずねるにあたって、私はまず、仏教からはじめようと思う」
と第2章を書き起こしている。例としてあげているのが、柳生但馬守宗矩が徳川三代将軍家光に語ったとされる言葉だ。
 柳生宗矩(1571~1646)は、幼少の頃から父宗巌に剣の手ほどきを受け、剣術の才能を開花させた。1594(文禄3)年に徳川家康の招きを受けた父とともに新陰流を披露し、その見事な技を認められて旗本となり、徳川秀忠の兵法指南を命ぜられ、新陰柳生流は将軍家の御流儀となっていった。
 1621(元和7)年には、徳川家光の兵法師範となっている。
 この柳生宗矩も仏教、特に禅との関わりが深く、沢庵和尚と親交があった。沢庵和尚は、「紫衣事件」で江戸幕府の逆鱗に触れる。
 紫衣は、紫色の法衣や袈裟で、宗派を問わず高徳の僧尼が朝廷から賜ったもので、その尊さを表すと同時に朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
 幕府は1613(慶長18)年、「勅許紫衣竝に山城大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度」を2年後には「禁中並公家諸法度」を定め、紫衣や上人号の授与を戒めたものの、後水尾天皇は、幕府に相談なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え、幕府は、勅許状の無効を宣言して朝廷を牽制した。沢庵和尚はこれに抗議して服従せず、1629(寛永6)年に配流の刑に処されたが、柳生宗矩は謫居中の沢庵和尚の赦免に尽力した。
 そして、許されて江戸へ帰着した沢庵和尚の助力を得て、『兵法家伝書』(3巻)を完成させる。
 この柳生宗矩は、門弟であった徳川家光に剣の奥義を伝え終わったとき、「これ以上のことを教えることはできません。あとは禅に学んでください」と語ったエピソードが、新渡戸によって紹介されている。

 

 

●武士道と禅

 新渡戸が、まず、武士道の淵源について、武士道と仏教、なかんづく禅との関わりから説き起こしたことは、むべなるかなというところがある。
 鎌倉時代に中国から伝来した禅宗・曹洞宗、臨済宗は、自らの鍛錬によって心を鍛えるという教えが中心であり、質実剛健で自らを依って立つところとする武士のマインドに合っていた。
 鎌倉幕府で実権を握った北条氏は特に禅宗と関わりが深く、宋の高名な禅僧を日本に招き、武士と禅宗との結びつきを確固たるものにした。
 蘭渓道隆(1213~1278)は1246(寛元4)年、北条時頼の招聘で来日し、宋の禅風を日本に伝えた。1253(建長5)年には、時頼は建長寺を建立し、蘭渓を開山に請じている。
 無学祖元(1226~1286)は蘭渓道隆亡き後、北条時宗に招聘されて1279(弘安2)年に来日し、建長寺に住したが、1282年、時宗は円覚寺を開創して無学祖元を開山に迎え、北条氏一門や鎌倉武士の教化にあたった。
 この建長寺は格式第一位、円覚寺が格式第二位、他に寿福寺(格式第三位)、浄智寺 (格式第四位)、浄妙寺(格式第五位)の臨済宗の五寺をもって「鎌倉五山」とし、武士に禅を広めたのである。
 室町時代になっても、足利将軍は武家政権のバックボーンとして禅宗を保護した。足利尊氏が保護したのが夢窓疎石である。夢窓疎石(1275~1351)は、伊勢国に生まれたが、4歳で甲斐国に移住し、当初は密教を学んだが、禅に転じ1330(元徳2)年には甲斐国に恵林寺を開くなどしたのち、1333(元弘3・正慶2)年に後醍醐天皇の求めに応じて上洛し、建武の新政が挫折したのちも、足利尊氏・直義の外護を受け、先述した全国への安国寺利生塔の創設や後醍醐天皇の冥福を祈るための天竜寺の建立を図ったりしている。
 足利義満は、1386(至徳3)年に、禅宗の保護を目的に京都五山の制を定めた。
 京都五山の寺格は、南禅寺(別格)、天龍寺 (寺格 第一位)、相国寺(寺格第二位)、建仁寺(寺格第三位)、東福寺(寺格第四位)、万寿寺(寺格第五位)であったが、応仁の乱以降京都五山は荒廃の憂き目にあうものの、鎌倉幕府、室町幕府ともに武家による精神的支柱として禅宗を重視したことが、武士道に禅が影響したことに間違いあるまい。
 中には、禅僧が武士を兼ねた例もある。安国寺恵瓊(?~1600)がそうである。安国寺恵瓊は臨済宗東福寺派の禅僧であったが、毛利家の外交係も務めていた。中国地方に進軍してきた羽柴秀吉と折衝したのを機に秀吉に取り立てられ、石田三成や小西行長らとともに秀吉配下の有力大名となった。
 武士が出家した例は数多く見られ、武田晴信は、1559(永禄2)年に臨済宗の長禅寺で出家して信玄と号した。
 上杉謙信は、曹洞宗、臨済宗、真言宗を学び、1570(元亀元)年には謙信の法号を名乗るようになっている。
 今川義元のブレーンとなった太原雪斎は臨済宗の僧侶、徳川家康の外交政策や宗教政策に関係した金地院崇伝も臨済宗の僧侶だった。
 このように、新渡戸が「武士道と禅」を武士道の淵源の第一に挙げたのには、禅が武家社会に深く浸透し、禅僧と武士が分かちがたく結びついていて、武士の精神に計り知れない影響を与えていたことがあったのだ。
 沢庵和尚は柳生宗矩に剣術に必要な禅の心も伝授している。それは、「不動智」と言われているもので、とらわれない心、無執着の心でないと、相手の動きに自由自在に対処できない、心を一か所にとどめることなく、常に自由なとらわれのない状態にしておくことの重要性を説いたのだ。
 禅は武士道の淵源をなすものではあるが、それだけで武士道を語ることはできないと、新渡戸はその論を続けていく。

(令和3年9月1日)

 

 

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