西岡 力

西岡 力 – 道徳と研究21 拉致の動機を暴いた金賢姫の良心の叫び

西岡力

モラロジー道徳教育財団教授

麗澤大学客員教授

 

 

 

 北朝鮮による日本人拉致が明らかになっていくプロセスには親子の愛と道徳が大きく関係していたことを何回か書いてきた。今回は、大韓機爆破テロ事件とその犯人の一人である金賢姫氏に関係する話を書きたい。
 田口八重子さんや横田めぐみさんの拉致が明らかになる過程では、北朝鮮工作員の道徳と家族愛があった。大韓航空機爆破事件の犯人の金賢姫氏が、拉致について初めてまとまった証言をした。その証言がなければ梶山答弁もなかっただろう。そうなれば、家族会結成もなかったかも知れないし、おそらく5人も帰ってこられなかっただろう。すでに日朝国交正常化が成っていたかもしれない。

 

 

●大韓機爆破テロ事件とはどんな事件だったのか

 若い読者のために1987年に起こった爆破テロ事件をまず、おさらいしよう。
 1987年、朝鮮労働党対外調査部工作員である金賢姫氏は、「ソウル・オリンピックを妨害するために韓国の旅客機を空中爆破せよ」との金正日の直筆署名の入った「親筆批准(自筆サインのある指令書)」を受けた。
 同年11月29日、彼女はベテラン工作員である金勝一とともに日本人父子に化けて、洋酒瓶とカセットラジオに仕込まれた時限爆弾を持ち、バグダットからソウル行き大韓航空858便に乗り込み、爆弾の入ったカバンを機内の荷物棚においたままにして経由地のアブダピで降りた。飛行機はインドを横断してビルマ沖のアンダマン海上空で爆破され、乗客乗員115人が全員亡くなった。
 金賢姫氏ら二人はアブダビからバーレーンに逃走したが、持参していた日本旅券の偽造を日本大使館員に見破られ、バーレーン空港で逮捕された。
 二人は「捕まったら金日成・金正日父子の名誉を守るために自殺せよ」という命令どおり毒薬入りのたばこを噛んだ。金勝一は即死したが、金賢姫氏はバーレーン警察官にたばこを奪われ、毒薬を少量しか飲まず生き残った。
 その後、金賢姫氏は韓国に移送され、国家安全企画部(1960年代に「韓国中央情報部(KCIA)」という名称で創設された韓国の情報機関。金大中政権下で「国家情報院」と再び名前が変わる)の取り調べを受け、「自分は北朝鮮の工作員であり、大韓機爆破は金正日の指示で自分たちが実行した。日本人に化ける教育を受けるため『李恩恵』と呼ばれていた日本人拉致被害者から81年からから83年まで20カ月教育を受けた」などと衝撃的な自白をした。
 日本の警察が彼女の証言をもとに「李恩恵」について捜査をしたところ、1978年6月に都内のベビーホテルに、一歳と二歳の幼子を預けたまま失踪した田口八重子さんであることを突き止めた。

 

 

●だまされたことに気づいたが・・・

 話を金賢姫がテロ実行犯としてバーレーン空港で逮捕されたときに戻す。彼女は捕まったときは自殺せよと言われて、金賢姫氏はバーレーン空港で、たばこに仕込んであった青酸カリ入りのアンプルを噛もうとした。気化した青酸塩を吸い、三日間、昏睡状態だったが、体力があり死ななかった。私は、これは神さまの助けだったと思っている。
 彼女は「蜂谷真由美」名義の日本の偽造パスポートを持っていたから、日本の主権侵害だと主張して、日本が身柄を取ることも法的には可能だった。
 毒薬の種類が北の工作員が持っているものと同じだった。それなどを根拠に韓国側がこれは北朝鮮のスパイだと言い、韓国への引き渡しを求め、日本が了解した。
 金賢姫氏は、初めは自供を拒んでいた。韓国の安企部には北の工作員を自供させるノウハウがあった。けっして拷問などしない。一人の人間として丁寧に取り扱う。韓国の実態をそのまま見せる。そうすると精神の動揺が来る。北朝鮮当局が教え込んだ虚構をうちやぶることによって、良心の呵責をおぼえて人間性を回復するように誘導するという基本方針だった。実は、飛行機に爆弾を入れたカバンを残してアブダビ空港で降りたとき、彼女は一瞬、動揺したという。
「この勤労者が死ぬのだと思うと一瞬、良心の呵責を感じましたが、金日成が指示した革命課業の完遂のためにはこの程度の犠牲は避けられないのだと心に決めて、タラップを降りました」(趙甲済『北秘密工作員の告白』)
 自分が金日成、金正日にだまされていたことに気づいて、彼女は自分が犯した殺人という大きな罪に対して心がおののいた。
「暑い南方の国に出稼ぎに行き、帰国する勤労者があの飛行機の搭乗客のほとんどだった、という話を聞いてから、私の心は揺れ動いた。彼らが愛する家族との再会を果たし、抱き合って喜ぶ姿を想像するだけで、私の胸は罪悪感で張り裂けんばかりであった」(『いま、女として 上』)
 しかし、自白してしまえば家族連座制で親、兄弟が処罰を受け、政治犯収容所に送られる。
彼女は脱北者ではなく、作戦のさなかで捕まった英雄なのであり、自白しなければ、家族は英雄の家族として最高待遇が約束される。しかし、真実を自白すれば、英雄から裏切り者に変わり、家族は裏切りの罪をかぶせられる。
 金賢姫氏は一晩眠れない夜を過ごしたと語っている。彼女は両親、特に母親のことを思った。砂漠でコップ一杯の水しかなく、それを飲まなければ死ぬという状況になったら、母は私に飲ませるにちがいない。それほど私に愛情をかけてくれた。その母が今の私の状況を見れば、私たちはどうなってもいいから、あなたは正しいことをしなさいと言ってくれるだろう。

 

 

●明らかになった拉致の動機

 自問自答した末、翌日、彼女は自白をした。
 115人の犠牲者にも家族がいる。その人たちを殺したのは悪だと、自白しなければならない。家族に累が及ぶが、家族は分かってくれるはずだと金賢姫氏は考えた。その自白があったからこそ、日本人が拉致されたことや、北朝鮮テロリストを日本人に化けさせる教育をしているという、完全犯罪に近い金正日の悪だくみが暴露された。母親の愛情深い子育てが歴史を変えたとも言える(金賢姫氏の母は隠れキリスト教信者だった)。
 日本の警察は金賢姫氏の自白がなされる前は、拉致の動機として北朝鮮の工作員が被害者になりすます「背乗り」についてはわかっていた。しかし、なりすますためには北朝鮮工作員が戦前に日本人として教育を受けている年長者である必要があった。
 しかし、梶山答弁で拉致を認めた地村さん夫婦、蓮池さん夫婦、市川修一さん・増元るみ子さん、田口八重子さんたちのケースは、被害者の年齢が若すぎた。つまり、昭和30年代以降に生まれた被害者らになりすます人材が北朝鮮にはいないはずだからだ。
 犯罪には動機がある。しかし、アベック拉致は動機が不明だった。それが金賢姫氏の証言によって、日本人化教育の教官をさせるために拉致をしたという動機が明らかになった。それで警察は自信を持って、当時の治安の最高責任者であった梶山静六国家公安委員長に歴史的答弁をさせることができたのだ。
 金賢姫氏の自白の2カ月後の1988年3月、参議院の予算委貞会で梶山静六・国家公安委曇が、蓮池さんや地村さん、増元さん、市川さんについて「(アベック六人の失踪について)北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚である」と歴史的答弁をした。警察は電波傍受などかなりの情報を持っており、金賢姫氏の証言によって、最後の謎だった動機も分かったのだ。

(令和3年8月25日)

 

 

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