大久保俊輝4 -葉隠れに育って
大久保俊輝
モラロジー道徳教育財団特任教授
●両親の故郷、佐嘉(佐賀)
あまりにも有名な葉隠れ。「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」という言葉で、様々に引用されてきた歴史がある。『葉隠』は武士に死を要求しているのではなく、武士として恥をかかずに生き抜くために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのであり、あくまでも武士の教訓(心構え)を説いたものであったと父から聞かされていた。
当時、鍋島藩は財政が厳しく二重鎖国をして人材や技術の流失を防いでいた。父方の先祖にあたる大久保忠朝が唐津藩主となって鍋島に仕事を与えてくれた礼状が当時の様子をうかがわせる。母方は、鍋島藩の船奉行を拝命していた。江藤新平が佐賀の乱を起こす間際に親友であったために、別れを告げに来たことを代々口伝としてよく聞かされた。母の生家のある小城には千葉城がある。小城は、千葉氏の知行地でもあり見上げる様な山城からは有明海に続く広大な佐賀平野が見渡せる。後方には天山がそびえている。
あのNHKドラマの「おしん」で、“佐賀人が歩くと、草も生えない”と、貧乏藩を揶揄してケチの代表のようにされた。きわめて失敬なシナリオである。農地解放で小作人に農地が渡り大農家だった祖父母の家訓は、いかに貧しくとも、人を迎えるのに草を生やしているような失礼がないように、いかに貧乏な生活であってもその気概を忘れぬようにと、私は幼い時から何度も聞かされ育った。
また、佐賀は男尊女卑の代表格にされるが、私が見てきた様は異なっていた。男は外に出れば7人の敵がいる。よって悔いなく存分にわが力を発揮してほしいというものであり、女はそうした「ふとか(強い)」男の惚れるというものであり、確かに幼い時から台所には今も入れてはもらえなかった。そこは女が仕切る場所で私が食べるのを見ながら母達は台所で食べていた。しかし、それをもって男尊女卑とは思えず、かえって頼りない男になってはならないと私は思えた。先日、佐野常民(日本赤十字の父)と山形有朋の書簡が本家の納屋から発見されたことからして、様々な方との交流があったことは興味深い。
●父の遺言
いじめの全国調査があり、報告件数がまとめられてた。トップに私が住む千葉県が上がった。意識が高いのだと理由が書かれていた。しかし、佐賀県は2桁少ない、信じられないほどのわずかな数字であったことを鮮明に覚えている。きっと祖母が生きていたら、やられて恥ずかしいとか、自分が間違っていないと思うのなら、やり返してこいと気合を入れられたのではないかと思える。こうした恥の意識は幼い時から仕込まされていたように思う。
父は、第二次世界大戦がはじまる間際に中島飛行機武蔵野製作所に上京して勤務した。あの零戦のエンジン「栄」を製作した一人であった。その後、暗号解読士として中国本土で参戦し敗戦。ソ連が引き上げ船を後方から機銃掃射した卑劣さを語っていた。確かに寡黙で多くを語らない父ではあったが、死後その日章旗がエンジン設計者たちの唯一の証明となり、現在は「武蔵野ふるさと歴史館」に展示されている。その父が中島知久平から聞かされた話を語ってくれたことを思い出す。
「いずれ戦争が終わるだろうが、勝っても負けてもこれからは自動車の時代が来る。日本の為に自動車の事をしっかりと今から学んでおいてほしい」――。
その意味では、葉隠れとは“生あるものいつかは死する時がある。いつか死が訪れても悔いなく生きる事”を指している。それは、私が知る祖父祖母、そして今は亡き父母から見えた佐嘉「葉隠」の姿であり、父の遺言は「父ありて、母ありて、今の命ぞ」であった。
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