川上 和久

川上和久 – 新渡戸稲造⑧ 『葉隠』――「武士道」を説いた近世の代表的著作

川上和久

麗澤大学教授

 

 

●新渡戸の『武士道』につながる書

 新渡戸稲造が『武士道』を世に出す前から、武士は存在し、武士の在り方自体はその時代時代で論じられてきたが、「武士道」という言葉自体が登場するのは近世になってからであり、さまざまな文献に「武士道」という言葉が登場するようになったことを前回は述べてきた。その嚆矢こうしとしての『甲陽軍鑑』を紹介したが、今回も、「武士道」を説いた近世の代表的著作を紹介したい。

「武士道」を説いた近世の書として多くの人々がイメージするのが『葉隠』であろう。語ったのは佐賀藩の二代目藩主鍋島光茂に仕えていた山本常朝(1659-1719)という佐賀藩士である。常朝は、9歳のとき、光茂に御側小僧として仕え、小小姓(こごしょう)となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、出仕を止められ、禅僧である湛然梁重(たんねんりょうちょう)和尚に仏道を、石田一鼎(いしだ・いってい)に儒学を学んだ、

 湛然梁重和尚は、肥前の生まれで、三河国の寺にいたが、佐賀県武雄出身の月舟和尚が推薦し、1659年に佐賀の高傳寺第11代住職に就いた名僧である。光茂にも尊敬されていたようだが、1669年に光茂が他の和尚を斬首した処断に憤り、寺を去って、松瀬の通天庵に入り、そこに建てられた華蔵庵で1660年に死去している。

 この僧侶の教えや哲学が葉隠思想を体現しており、湛然和尚は「葉隠和尚」とも呼ばれている。

 石田一鼎は、1629年生まれ。碩学の誉れ高く、15、16歳では儒教や仏教の書物で閲読しないものはないほどの読書家であった。17歳で佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂の近侍となり、勝茂没後は三歳下の光茂の御側相談役となっている。

 だが、この一鼎も34歳の時、御役御免となって支藩小城藩に預けられ、8年後の1669年に許されて帰り、1693年に65歳で没している。

 

 主君の勘気に触れた常朝だが、その博識の故か、22歳でふたたび出仕、御書物役、京都役を命じられた。主君光茂が没した際、後を追って腹を切ろうとしたものの、主君が殉死を禁じていたため、やむを得ず北山黒土原に宗寿庵という庵を結んで隠居生活を送ることになる。その際に、

「分け入りてまだ住みなれぬ深山辺に影むつまじき秋の夜の月」

という歌を詠んでいる。

 

 宗寿庵に隠遁生活を送る常朝のもとに訪れ、聞き書きをしたのが3代目藩主鍋島綱茂、4代目藩主鍋島吉茂に仕えて祐筆(文書・記録の執筆・作成にあたる職)を務めていた田代陣基(1678-1748)である。陣基は、19歳の時よりから祐筆役として仕えていたが、1709年に御役御免となっている。

 山本常朝、湛然梁重和尚、石田一鼎、田代陣基ともに、博識であり、この4人は「葉隠の四哲」とも称されているが、ともに主君から遠ざけられた経験を持っている。

 それは、この時代にあって、四哲が目指していた「武士のあるべき姿」が失われつつあったことを、象徴しているのかもしれない。

 

 ともあれ、陣基は宝永7年(1710)に、山本常朝の庵を訪れ、同じく失意の中にあった常朝と語らい合ううちに常朝の言葉の口述筆記を始め、7年後の享保元年(1716)に『葉隠』として完成させた。

 陣基は5代藩主宗茂の時代の1731年に、54歳で再び祐筆役となる。1748年に71歳で没している。

 

 

●「武士の気風」とはなんなのかを追い求めた

 さて、この『葉隠』は全11巻。先頭の2巻で、常朝が直接語った言葉が記されており、第3巻以降では、鍋島家の藩主や藩士について、そして、他国の武士の言行や事跡、伝承などが語られている。

『葉隠』の中で、「武士道」という言葉を使っている箇所で有名なのは、

「武士道は死ぬことと見つけたり」

という文言である。

「死を厭わないことこそが武士道である」というような解釈もされるが、常朝は、このような心構えを持つことによって、初めて「武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり」、生への未練を断って死に身になり切るとき、生死を超越した自由の境地に到達し、自然体で行動することができ、一生涯にわたって家の業をまっとうすることができると説いている。

「死ぬことが美しい」のではなく、「生死を超越して自然体で生きる」ことを説いているのであり、新渡戸稲造は『武士道』の第2章「武士道の淵源」を仏教から始めているが、『葉隠』と仏教思想も、常朝が湛然梁重和尚に師事していたこととも相まって、きわめて親和性が高いといえよう。

 

 常朝は、その冒頭で、日常、心にかけて誓願している四つの信条を書いているが、その中で「武士道」という言葉を用いている。

一、 武士道に於ておくれ取り申すまじき事(武士道においては決して未熟、不首尾ということがあってはならない事)
一、 主君の御用に立つべき事(主君の御用に立たなくてはならぬ事)
一、 親に孝行仕るべき事(親に孝行をなすべき事)
一、 大慈悲を起し人の為になるべき事(大きな慈悲心を起こして人のためになるべき事)

である。常朝が師事した石田一鼎が著した『武士道要鑑抄』にも序文の中で似たような誓願が記されており、その影響を受けていると思われるが、日頃の修練を何よりも武士としてのありようとして上位概念に置いたところに、常朝の真髄があると言えよう。

『葉隠』が著されたのは、大坂夏の陣が終わってすでに百年ほどが経ち、戦国の遺風もすたれて、戦いの中で培われていた武士の気風もすたれ始めた元禄期であった。

 だが、そういう時期だったからこそ、主君に遠ざけられながらも、「武士の気風」とはなんなのかを追い求めた『葉隠』が生まれたのであり、後年、誤解を受けるような部分もあったが、江戸時代を通して、「武士の生きざま」を指し示す書として受け入れられ、新渡戸の『武士道』にもつながっていくのである。

 

参考文献

小池喜明 『葉隠』 講談社学術文庫

安部龍太郎 『葉隠物語』 日本経済新聞出版

三島由紀夫 『葉隠入門』 新潮文庫

 

 

(令和3年7月21日)

 

 

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