髙橋 史朗

髙橋史朗 41 –「国際化」の文化的意味を問い直す――文化の「溶解」と「再発見」

髙橋史朗

モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所教授

麗澤大学大学院客員教授

 

 

 東京オリンピックがいよいよ1か月後に開催される。日本の心と文化、「おもてなしの心」を世界に発信していきたい。私自身は留学生との交流活動を通じて、その一翼を担いたいと思っている。そこで、改めて「国際化」の文化的意味について考えてみたい。

 

 

●30万人という政府目標を突破した外国人留学生

 外国人留学生在籍状況調査によれば、昨年5月1日現在の外国人留学生数は約28万人(前年比10.4%減)で、留学生数の多い国・地域は、中国12万2千人、ベトナム6万2千人、ネパール2万4千人など、アジアからの留学生が大半を占めている。

 一方、日本人学生の海外留学状況は、令和元年度で約11万人(前年比6,8%減)で、留学生数の多い国・地域は、アメリカ1万8千人、オーストラリア1万人、カナダ9千人などであった。

 我が国は昭和59年に「留学生10万人計画」を発表し、昭和57年の外国人留学生は8千人(アジアからの留学生は78%)に過ぎなかったが、10年後には5万人(アジアからの留学生は92%)に増えた。

 さらに、2020年を目途に外国人留学生の受け入れ30万人を目指すという政府目標を達成し、1昨年の外国人留学生は31万2千人であった。21世紀の人間像として、「世界の中の日本人」を掲げ、国際化に対応する教育の在り方について答申した臨時教育審議会(中曾根政権下の政府の教育審議会)第二次答申の作成に専門委員として関与した筆者にとって、隔世の感がある。

 

 

●アジアの留学生が二次会を断る理由

 今年8月10日に東京オリンピックで世界の人々が集う明治神宮でASEAN(東南アジア諸国連合)の留学生との「次世代交流フォーラム――オリンピズムと武道――」(同実行委員会主催、外務省後援)が開催され、百年前に「明治の心、日本の和の文化」を守り伝えようと11万人の青年たちが「明治神宮の森」を築いた歴史のバトンを受け継ぎ、日本とASEANの架け橋になろうという使命感を持った中高生、大学生が結集する。

 筆者は同実行委員長を務めるが、これまでにも代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターでASEANの留学生を招いて日本の大学生との交流会を開催してきた。また、明星大学のゼミの学生たちとのクリスマスパーティーや討論会なども行ってきた。

 ところが、2次会のコンパに誘ったところ、「日本の大学生とはお酒を飲まないことにしているのでお断りします」とキッパリ拒否されて驚いたことがある。その理由を尋ねると、「日本の大学生は私の国の話に耳を傾けようとしないし、誰も日本のことを語ろうとしない。ただ『イッキ、イッキ』の掛け声とともに無理やり酒を飲まされバカ騒ぎするだけで、お金と時間がもったいない。心の交流、文化の交流が全くないから」であるという。

 

 

●「愛憎症候群」という「両価性コンプレックス」

 亜細亜大学の衛藤審吉元学長によれば、日本人には「愛憎症候群」という、他民族に対する「両価性コンプレックス」があるという。「愛」は、畏敬、脅威、屈従、心酔の状態で、「憎」は、軽蔑、自信、優越感、差別、接触拒否、そして最後には相手を絶滅させたいという衝動にまで及ぶとしている。

 決してすべての日本人に当てはまるわけではないが、確かに日本人の欧米とASEANの人々に対する態度には、このような「愛憎症候群」とでもいうべき「両価性コンプレックス」の一面があるといえよう。

 すなわち、日本人は欧米をモデルとして「教師」と考えて「学習」に出かけ、「劣等感」を抱くのに対して、中韓やASEAN、アフリカの人々に対しては、居丈高になり、軽蔑や差別的な態度をとり、「優越感」を抱く傾向があった。

 筆者はかつて「インドシナ難民の明日を考える会」の顧問をしていたが、カンボジア難民の子に「小学校は楽しい?」と尋ねたところ、「日本の子供たちは『難民帰れ!』と言って、よくいじめる」と言いながら、一人の日本人の友達を連れてきて、「この子は僕らの味方です」と語った。

 「敵か味方か」という目でしか日本の子供たちを見られないのは寂しい限りであるが、それは裏返せば、日本の子供たちには異質なものを排除しようとする排他性、閉鎖性が極めて強いことを物語っている。

 

 

●臨教審海外視察と「国際学校研究委員会」

 昭和60年に日本政府を代表して臨時教育審議会の岡本道雄会長ら5人のメンバーと「海外教育制度等調査」に派遣され、米英仏蘭のインターナショナルスクールやOECD(経済協力開発機構)などを約2週間訪問し、『臨教審だより』11号に派遣委員による座談会が詳述されている。

 また、平成元年に文科省が研究調査を委託した「国際学校研究委員会」のメンバー(6人で構成)に選ばれ、3年間日本と世界のインターナショナルスクールを視察し報告書を作成した(事務局は牛尾治朗氏が率いる社会工学研究所)。

 同委員会の第1回会合で、「国際人とは何か」について議論したが、日本人としての自覚がベースとなると考える委員が私を含めて3人、できるだけ日本人としての自覚を忘れて地球市民の自覚に徹するのが国際人だと考える委員が3人で、真っ二つに割れた。

 

 

●「国際人」の三条件――「教育サミット」に参加して驚いたこと

 私が考える「国際人」の条件は、自己認識・自国認識・他国認識の3条件である。すなわち、まず魅力的な自己表現ができ、自国の文化伝統を深く認識して、これを表現できること、さらに他国の異文化を深く理解し、他国の立場に立って考えることができるとともに、「説得力ある自己主張やコミュニケ―ション」ができること、が求められる。

 かつてアメリカの雑誌『TIME』は日本特集号において、「世界の人々から称賛されるが、愛されない日本人」と書いた。なぜ賞賛されるか。それは日本人が働きバチだからである。なぜ愛されないか。日本人は自分のこと、金儲けのことしか考えていないからであるという。

 また、同誌は「世界は日本人を一つのレンズで眺め、日本人は別のレンズで自分を眺めている」と評した。その一つのレンズとは「エコノミック・アニマル」というレンズである。この日本人の欠点を克服して「世界に信頼される日本人」「世界に貢献できる日本人」を育てていくことが求められている。

 臨教審専門委員時代に世界各国の文部事務次官クラスの教育行政のトップ官僚が京都の国際会議場に結集した「教育サミット」(ハイレベル教育専門家会議)に参加させていただいたが、中曾根康弘首相(当時)や岡本会長が「教育の国際化」について講演した際に、「国際化」の意味について質問が殺到して驚いた。

 

 

●「国際化」をめぐる日本語と英語の構造上の“ズレ”

  その背景には、次のような埼玉大学の長谷川三千子名誉教授が指摘している「国際化」をめぐる日本語と英語の構造上の“ズレ“があった。

<英語の“internationalize”は、何かを「何々となす」という他動詞であるのに対して、日本語の「国際化」は「何々となる」こととして説明されている。……日本人にとって、すべての国際化はみな「自らが国際的なものとなる」ことの様々な変形に他ならないのです。他者をどうにかするのではなくて、自分たちが何かになってゆく――これが日本語の「国際化」の構造である>

 一方、英語の“internationalize”は、「(国、領土等を)二か国以上の共同統治または保護のもとに置くこと」という意味で、「スエズ運河はinternationalizeされねばならぬ」というように表現されているという。

 この二つの言葉の構造上の“ズレ”については、私自身も国際会議で何度か経験したが、「国際化」について論じる前提として、この点をまず認識しておく必要があろう。

 

 

●矢野暢と山崎正和の「国際化」論

 京都大学の矢野暢名誉教授は、「国際化とは、『固有のアイデンティティを持った一国民ないし一民族を、もっとも摩擦の少ない形で、国際的に定位させるための努力』である、と定義し、国際化を国際環境変化の中に位置づけ、様々な摩擦を主体的、積極的に最小化していく過程であるとしているが、長谷川流に言えば、これも「自らが国際的なものとなる」の一変形といえよう。

 一方、国際化を異文化との接触と捉え、「内なる国際化」と「外なる国際化」に分けて考える見方もある。「内なる国際化」は、国内のシステムや制度・組織を国外のものに同調させるように変革させ、さらには国民の意識や価値観においてもこのような変革を容易にする方向へ変化させること、「外なる国際化」は、日本及び日本人の海外活動の規模が拡散・拡大し、その過程において日本的なシステムや制度・習慣を含む文化が国外で受容されていくこと、と定義できる。

 また、大阪大学の山崎正和名誉教授は、「世界が求めている日本の国際化とは、国民にとっておよそ浪費的なお伽噺ではなく、場合によっては血の流れる現実の変革」であり、「日本人の家族主義、社会協調性、情緒的な意思疎通など、要するに集団的で没個人主義的な性格という自己像を国際化の波によって洗い直し、試練と摩擦の中で再発見する」必要があるとしている。

 

 

●「新しい日本人の自己実現」――「卒近代・戦後」の「第三の道」

 これは、国際化を社会変革の一つの極めて重要な手段として捉える考えであるが、外国人労働者の流入が急速に進行し、今後ますます増えることが予想され、異民族、異人種、異文化が混在する「異文化交流時代」へ向かう中で、私たちは「卒近代・戦後」の「第三の道」としての「新しい日本人の自己実現」をどのようにして行っていくかを真剣に考えなければならない時期に来ている。

 私たちはもはや過去の「古き良き時代」に帰ることもできないし、明治以降の近代化、戦後の民主化を無邪気に肯定し、この時代に安住することもできない。新しい時代の変化を主体的に受け止め、いかにして「新しい日本人の自己実現」を遂げていくか、を真剣に模索する必要がある。

 筑波大学の澤田昭夫名誉教授が指摘しているように、「国際化とは西欧化を指すものでもなければ、民族のアイデンティティ喪失を意味するものでもない」ことは言うまでもないことである。異文化交流時代を迎えて、大切なのは「国際化の文化的意味」である。それは、文化の違いを許容し、自国文化以外の文化を受容し、社会を異文化に開放することである。

 

 

●筑波大学入試の小論文問題に採用された拙著

 この点について論じた拙著『悩める子供たちをどう救うか』(PHP研究所)の一文が筑波大学入試の小論文問題として採用された。著者である私自身に確認せずに「正解」が入試問題集に掲載されていて驚いたが、私が重視しているのは以下の点である。

 文化は花と同じく、どれが美しくどれが醜いとか、どれが正しくどれが間違っているとか序列化できないものである。色、形、大きさ、匂いなど花を構成する要素のいずれをとっても、どの花が一番美しいとは決められないように、それぞれの国の文化にはそれぞれの良さと個性があり、どの国の文化が一番だと序列化できないものである。

 それ故に、自民族・自文化中心に考えずに、自国や自国の文化伝統を「世界の中の日本」という枠組みの中で見つめ直し、他国と異文化を深く共感的に理解することによって、自国と自国の文化伝統を相対化し、世界的地球的視野に立って「再発見」することが大切である。「新しい日本人の自己実現」は、そのような文化の「溶解」と「再発見」という過程を体験して初めて方向性が見えてくるものである。

 

 

●文化の「溶解」と「再発見」――「Uカーブ説」と「Wカーブ説」

 この文化の「溶解」と「再発見」という過程を体験するためには、異文化体験が必要である。一橋大学の稲村博・元教授らの研究によれば、日本人の海外対応には、「Uカーブ説」と「Wカーブ説」があるという。「カルチャー・ショック」によって、自分文化中心主義ではなく、相対的な文化理解ができるようになり、最初は異文化に有頂天になるが、やがて冷静に客観的に相手の文化の長所と欠点を見ることができるようになり、対等な立場で落ち着いた生活ができるようになる。

 この「Uカーブ説」に対して、「Wカーブ説」というのは、同じような過程を帰国した直後に体験するというもので、Uが二つ重なってWになるという説である。この「Uカーブ説」が私の言う「溶解」、「Wカーブ説」が「再発見」の過程に該当するわけである。

 宇宙船や衛星は、打ち上げられ、任務を終えた後、太平洋のどこかに再投入して帰還するが、その時のショックは非常に大きいものであるという。外国留学から帰国した時の「リエントリー・ショック」はこれに似ている。そして、そのショックからやがて立ち上がり、冷静に日本の長所と欠点を「再発見」できるようになるのである。これは実際に、私自身も三年間のアメリカ留学の後に経験したことである。

 

(令和3年6月22日)

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