西岡 力

西岡 力 – 道徳と研究18 タブーを破った横田滋さんの決断

西岡力

モラロジー道徳教育財団教授

麗澤大学客員教授

 

 前項まで、①1970年代後半に集中して日本人が全国から北朝鮮によって拉致されたが、②実は警察の公安部門はそのことを把握していたが事実を公開しないでいたところ、③1987年に大韓航空機爆破テロ事件が起きて犯人の一人が日本人拉致被害者から日本人化教育を受けていたことを自白して拉致が事実だと証明され、④1988年3月に警察がこれまで集めた情報を根拠に梶山静六国家公安委員長が国会で北朝鮮による拉致に疑いが濃厚だという歴史的答弁を行ったが、⑤マスコミがその答弁を無視し、その2年後の金丸訪朝でも与野党の大物政治家が拉致を取り上げず、外務省も日朝国交交渉で事実上、拉致問題を棚上げし、⑥警視庁が田口八重子さん拉致の重要参考人の自宅を家宅捜索しようとしたとき金丸議員の圧力でそれができなくなった、ことなどを書いてきた。

 つまり、1970年代、80年代、90年代には日本で拉致問題を取り上げることに、今では考えられないほど大きなタブーがあった。私がそのタブーの中で1991年に勇気を振り絞って拉致に関する論文を書いたエピソードは、このコーナーの14回目に「北朝鮮による日本人拉致問題と私の関わり」という題で書いた。

 

 

●毅然たる姿勢

 この大きなタブーを打ち破ったのが「家族会」の戦いだった。1997年韓国の情報機関からの情報リークにより、横田めぐみさんが拉致されていることが判明した。そのとき、横田さんのご両親は実名を出すかどうかで悩まれた。

 当時、政府内公安機関を含む多数の北朝鮮専門家は、北朝鮮政権が拉致は捏造だと主張しているので、実名を出すと証拠隠滅のために、その被害者に危害が加えられるので、止めたほうがよいという意見だった。前回触れた1988年3月の参議院予算委員会での梶山静六国家公安委員長による「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」だという答弁でも、実は質問と答弁の両方で被害者の実名は伏せられて、拉致現場の地名だけが言及されていた。

 横田家の中でも、めぐみさんの母の早紀江さん、双子の弟の拓也さん、哲也さんは実名を出すことを躊躇していた。早紀江さんは20年間、「めぐみがどこにいるのかさえ分からなかった。その間、めぐみはこれまでお父さん、お母さん、いつ助けに来てくれるのと思い続けてきたはずだ。やっと北朝鮮にいるということが分かった。そのとき、親が最初に取る行動がめぐみを危険にさらすかも知れないということは耐えがたい」として実名での訴えに反対していた。

 しかし、父の滋さんが毅然としてこう説得したという。

「拉致が起きてから20年間、日本は真剣に救出に取り組んでいなかった。このまま、新潟出身のYさんという曖昧な形で報道がなされても、マスコミはすぐ忘れてしまい、世論は盛り上がらないだろう。そうなれば、また20年、何も起きず、親たちは死んでいき、拉致された子供達も拉致されているとことさえ明らかにならないまま死んでいくだろう。一定のリスクはあるが世論に訴えよう」

 それを受けて横田家が記者会見で実名と写真を公開したのだ。

 

 

●拉致解決は一家族の問題ではない

 2020年6月9日、滋さんの葬儀後の記者会見で早紀江さんと拓也さん、哲也さんが、今はお父さんの決断が正しかったと思っていると、次のように話された。それを聞いて私は感無量だった。

<早紀江> 北朝鮮という国の色んなことは知らなかったですね。拉致をする国だということも知らなかったし、何か気に入らなければすぐ殺してしまうとか。しかし、主人はこれまで20年間何も見えないで苦しんでいましたので、覚悟してでも進まなければだめだ、と。そこは強いんですね。
 今は北朝鮮のことが明らかになって、お父さんが言ったことは間違ってなかったと思っています。

<拓也> 母も双子の私たちも、普通の一般人なんですよね。国際関係論とか国際政治を専門に学んでいるわけでもなくて、もちろん外交権も警察権も持っていない普通の素人です。
 ただ父がその瞬間に氏名を公表して、この問題を前に動かすというのは、考えたことではなく、本能的な判断だったと思っています。
 けれどもやはり我が子を救うために、何を決断する必要があるのかっていうことを本能的に考えて、私たち3人が慎重な意見を考えている時に、勇気ある判断をしたんだと思います。今、それがようやくここまで、まだ解決はしていないものの、金正恩の包囲網を構築するあと一歩のところまで来ていますから、そこはやはり止めてはいけない。父の思いをかなえさせてあげるために、絶対に止めてはならないというふうに思っています。
 これは先ほど申し上げたように、横田家だけの問題ではなくて、日本国家に与えられた課題、使命であるということを、皆で意識して報道も一枚岩になって、北朝鮮と戦ってほしいと思っています。

<哲也> 家族内の議論の中で、名前を出す、出さないっていうことがあって、父の意見が尊重され、それがいい方向に向かっていると思います。北朝鮮というのは人の命が見捨てられる国ですから、もしかしたらその時の決断で翌日に殺されたかもしれない。
 そういう意味でたまたま父の意見が正しかっただけなのかもしれない。結果としては今、正しかった判断だと思うのですが、その正しかった判断が今、完全にまでは成果が出ていない。
 父は今天国に行っていますが、「帰国したよ」と報告できることこそが、私たち家族であり日本国民の使命と思っています。

 

 

●世論を盛り上げるために……

 私はその決断の一部に関与していたこともあって、滋さんたちを孤立させてしまってはならないと感じて、「救う会」を作り一緒に戦ってきた。常に、北朝鮮が被害者に対して危害を加えることがあったらどう責任を取れば良いのかと心の奥底で考えながら、それでもまず制裁をかけてその圧力を背景にして全被害者の即時一括帰国を実現させよと、「家族会」とともに求めてきた。

 実はこのようなこともあった。小泉訪朝の数年後、お酒も入った懇談の席で、「救う会」の当時の佐藤勝巳会長と私が滋さんに叱責されたことがある。滋さんが実名を出すという決断をする前に、「救う会」の母体になった現代コリア研究所がネットに新潟日報の報道を引用する形で横田めぐみという実名を明らかにしていたことを、なぜ家族の了解なしにそのようなことをしたのかと責められたのだ。そのとき、佐藤会長と私は申し訳なかったと謝罪したうえで、だからこそ、世論を盛り上げてめぐみさんたち全員を取り戻す運動を最後までいっしょに続けますと誓った。その佐藤会長もすでにこの世を去っているが、私は最後までこの誓いを守るつもりだ。

 滋さんの決断の約10年前の1988年に、北朝鮮からの手紙を受け取っていた有本恵子さんの両親は繰り返し外務省や警察、自民党や社会党などの政党所属の主要議員を訪れて娘たちの救出を訴える孤独な戦いをされていた。外務省では担当の課の末端実務者が廊下で話を聞くという対応だった。まともに話を聞いてくれたのは安倍晋太郎議員(当時)だけで、そのときから同議員の秘書だった安倍晋三・前総理大臣はこの戦いに加わっていた。

 それ以外の家族は、1980年1月の産経新聞の特ダネ報道や前出の1988年3月の梶山答弁で、拉致されたということを知りながら、実名を出すと危ないという政府関係者のアドバイスを受け、政府がそう言うからには水面下で交渉して助け出してくれるだろうとじっと耐えていた。

 しかし、何も動かないことを知って、有本さんや増元るみ子さん、市川修一さん、蓮池薫・奥土(蓮池)祐木子さん、地村保志さん、浜本富貴恵さんらの家族も実名での訴えを決断され、「家族会」ができた。それを横で見ていた私は、家族がここまで悲壮な決意をして実名での訴えを行ったのに世論が盛り上がらなかったら日本はおしまいだと考え、学者という枠組みを超えて運動の世界に飛び込んだ。少数の専門家と国民有志が、「家族会」を支援して救出運動に取り組む「救う会」を各地で結成した。

 平成10年にその連合体として「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」を作った。安倍晋三、西村真悟、故・中川昭一氏などごく少数の政治家が所属政党内で冷遇されながら、私たちとともに戦いを始めた。

 

 

●「拉致など存在しない」というマスコミの姿勢

 滋さんと私たちが戦った第一の嘘は、拉致など存在しないというものだった。産経新聞以外の全てのマスコミが拉致疑惑と書いて、北朝鮮側の言い分と私たちの言い分を両論併記していた。テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」は平成12年、小泉訪朝のわずか2年前に、一度私に出演依頼をしておきながら、「今回は朝鮮総連をどうしても出演させたい。彼らが西岡との同席を拒んでいる」という理由で出演依頼を取り消した。担当者は私にこの出演依頼取り消しは司会の田原総一朗氏も了解しているという趣旨の説明をした。

 同じ年、朝日新聞は日朝国交交渉を進めるべきだという内容の社説で、拉致問題を「障害」と書いた。横田滋さんは親の代から朝日新聞の読者だったが、これを読み、産経新聞に購読を変えた。

 街頭署名をしているとビラを投げ捨てて踏みつけられたり、署名用紙をたたき落とされたりした。冷たい視線を送って無視されることが普通だった。それでも全国どこでも行くという姿勢で、各地で「救う会」の仲間と集会を開いた。新幹線と特急を乗り換えて4時間近くかけて到着した会場には、街宣右翼が着る戦闘服の人物たちが大部分で10人未満であった、というときもあった。

 ある県で集会を準備したところ、その県の「救う会」会長が勤務する大学に朝鮮総連が抗議にきたので、警察が緊張して集会当日、壇上で襲われたときどのように逃げるか話し合ったうえで、集会出席者より多い警備の警官に守られて集会を行ったこともあった。

 それでも愚直に、娘が拉致されています、どうか世論を盛り上げて救出してくださいと滋さんは訴え続けた。そして、2002年9月、拉致を命じた金正日が小泉首相に拉致したことを認めて謝罪するという大きな成果があった。拉致は存在しないという嘘を打ち破ることができた。私たちの戦いの最初の勝利だった。

 

 

●お別れの会での安倍氏の言葉

 2020年10月「家族会」「救う会」「拉致議連」はその年6月に逝去された横田滋さんのお別れの会を開いた。そこで横田滋さんの決断が歴史を変えたとして、安倍晋三・前総理大臣が次のような挨拶をした。それを引用して次回に続けたい。

「昭和52年11月15日、めぐみさんが北朝鮮に拉致されてからの横田家は、娘を取り返すため、戦い続けた43年間だったと思います。当時の日本は、『北朝鮮が拉致をする筈がない』という空気が支配し、なかなか国民的な理解が進まない中で、政府も動きがなかった。
 そういう中で滋さんは、本当に困難な判断を迫られました。果たしてめぐみさんの実名を公表すべきかどうかということでした。
 公表しなければ国民的な理解は深まらず、政府も動かない。しかし、もし公表してめぐみさんの身に危害が及んだら、どうなるか。おそらく、滋さんにとって眠れない夜が続いたのだろうと思います。
 でも、あの時の滋さんの決断によって、国民的な理解が深まり、そして『13歳の少女まで拉致をしていたのか』と多くの国民が怒りを覚え、運動が盛り上がり、そして2002年、北朝鮮は拉致を認め、謝罪をするに至りました。
 しかし、その際発表された生存者の名簿には、めぐみさんの名前はありませんでした。あの時私たちは平壌にいてその報告を受けた時、大きな衝撃を受けました。その場の空気は凍りつき、あの時期待は高まっていました。期待された滋さんやご家族の気持ちを思うと、言葉もありませんでした。
 しかし、滋さんは決してあきらめませんでした。1か月後の10月15日に、5人の被害者の皆さんが帰国されました。羽田空港には、「家族会」代表として出迎えられた滋さんの姿がありました。「家族会」の代表として責任感からこの場を記録に止めようと、カメラのシャッターを切っておられました。その滋さんの目からは、涙が流れていました。
 そこにめぐみさんがいないことがどんなに悲しかったか、どんなにつらかったか。国家としてこの問題を解決しなければならないと、強く決意しました。
 滋さんの戦いはその後も続き、夏の暑い日も汗をふきながら署名活動を行い、ビラを配り、冬の日も全国に出かけられました。

 

 ふだんは本当に温厚でいつも温かい笑みを浮かべている滋さんでありますが、娘を必ず自分の手で取り返さなければならないという強い信念と、家族会の象徴としての責任感から、まさに命を削って運動を続けられたと思います。大変なご負担をおかけして本当に申し訳ない思いです」

(この項続く)

 

(令和3年5月10日)

 

 

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