川上 和久

川上和久 – 新渡戸稲造⑥ 日露戦争の勝利をもたらした「影の奇跡」

川上和久

麗澤大学教授

 

 

●セオドア・ルーズベルト大統領が誕生した奇跡

 我が国が、日露戦争で奇跡的な勝利を収めることができたのは、軍事的には1905年3月10日の奉天会戦での陸軍の勝利、5月28日の日本海海戦での海軍の勝利などが決定的な役割を果たしたが、高橋是清らの財務工作による戦費の調達や、明石元二郎陸軍大佐による情報収集やロシア革命の支援など、総力を挙げた軍事行動以外の勝利に向けた工作活動がうまく機能したことは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも詳しく述べられている。

 そして、本欄でも述べたように、セオドア・ルーズベルト大統領が、第26代米国大統領として、中立を保ちながらも、我が国に可能な限りの肩入れをし、ポーツマス講和条約で国力の限界だった我が国とロシアの仲介をしてくれたことも大きかった。

 

 ちなみに、日露戦争時にセオドア・ルーズベルト大統領が米国大統領だったということ自体も奇跡的なことだった。というのは、ルーズベルトは、選挙によって選出された大統領ではなかったからである。

 1897年に、ルーズベルトは当時の第25代ウイリアム・マッキンリー大統領のもとで海軍次官に抜擢され、1898年に米西戦争が勃発してからは、義勇兵を率いてキューバの戦場で大活躍し、ニューヨーク・ワールド紙、ニィーヨーク・ジャーナル紙など、当時の大衆化した新聞がその大活躍を大きく報じ、一躍、国民的人気を得ることになった。

 その後、1900年のマッキンリー大統領の再選の際、副大統領になったのである。

 ところが、マッキンリー大統領が1901年9月6日に、ニューヨーク州バッファローで開催されていた博覧会に出席した際に、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュに銃撃され、9月14日にこの世を去った。1865年の第16代アブラハム・リンカーン大統領、1881年の第20代ジェイムズ・ガーフィールド大統領に続いて、3人目の暗殺された米国大統領となった。

 そのため、ルーズベルト副大統領が、第26代大統領に就任したのである

 

 

●奇跡の積み重ねが勝利へと導く

 大統領に就任したルーズベルトが、日本の柔術を見学してたいへん感銘を受け、海軍で柔術を学ばせた経緯は、前回述べたとおりだが、日露戦争が始まり、親日世論形成のため、伊藤博文に請われて渡米した金子堅太郎は、ルーズベルト大統領のハーバード大学の同窓だったこともあり、講演会などで新聞にアピールする一方で、ルーズベルト大統領にも積極的にアプローチした。

 金子堅太郎は、福岡藩士の息子として1853(嘉永6)年に生まれた。福岡藩は、黒田長政以来の名門で、黒田藩とも呼ばれたが、幕末は勤王派と佐幕派の対立などで薩長のような活躍ができず、維新後も、藩士による太政官札偽造事件など、奥羽越列藩同盟ほどではないにせよ、冷遇された藩だった。

 金子は1870(明治3)年に藩校である修猷館から江戸に出て英語を学び、翌年の旧藩主黒田長知の留学に団琢磨らと随行し、1878(明治11)年に、小村寿太郎とともにハーバード大学で法律学を専攻し、卒業した。1884(明治17)年、宮中に制度取調局が新設されると伊藤博文の下で井上毅、伊東巳代治らと共に憲法、貴族院令、衆院議員選挙法などの起草に当たり、伊藤博文に重用されて、農商務大臣や司法大臣を務めた。

 その金子が、当時駐米公使をしていた高平小五郎とともに、日露開戦の直後の1904年3月に、ホワイトハウスの昼食会に招かれた。

 高平小五郎も、薩長の出身ではない。1854(安政元)年、今の岩手県にある一ノ関藩の藩士の息子として生まれ、一ノ関藩士高平真藤の養子となって、明治維新の際に、一ノ関藩は仙台藩に従って奥羽越列藩同盟に加わり、明治新政府軍と戦ったが、高平もこの戦いに従軍している。

 新渡戸稲造、金子堅太郎、高平小五郎と、日露戦争で「裏の奇跡」を演出した3人が、いずれも薩長閥でなかった事実は、表の政治や軍事とは違うところで国難にあたって死力を尽くした先人たちの思いをつくづく感じる。

 それはさておき、高平は1870(明治3)年に大学南校(現在の東京大学)に入学し、1973(明治6)年に卒業したのち、工部省を経て外務省に務め、米国公使館勤務やニューヨーク総領事も含めた外交官としてのキャリアを積み重ねて、1899(明治32)年には外務次官となり、1900(明治33)年より駐米公使となった。来るべき日露戦争に備えての人事だったであろうが、ポーツマス講和条約締結に当たっては、小村寿太郎外相と共に全権になっている。

 

 1904年3月でのホワイトハウスでの昼食会の席上、新渡戸の『武士道』のことが話題にのぼった。そこで、高平はルーズベルト大統領に『武士道』を1冊贈呈した。ルーズベルト大統領は『武士道』を読んで感銘を受け、自ら『武士道』を数十冊購入して、家族や友人たちにも薦めたという。

 マッキンリー大統領が暗殺されるという偶然によって、ルーズベルトが大統領となり、日露戦争を迎えたという奇跡。そのルーズベルト大統領が日本の柔術、新渡戸稲造の『武士道』に大きな関心を寄せたという奇跡。また、その奇跡を演出した新渡戸稲造、金子堅太郎、高平小五郎ら、明治維新では「勝者」となり得ずに命がけで這い上がった俊英たち。

 そんな奇跡の積み重ねの中で、我が国が欧米列強の植民地とならずに自立への道を歩み得たことを、私たちは決して忘れてはなるまい。

 

(令和3年5月6日)

 

 

※道徳サロンでは、ご投稿を募集中! 

道徳サロンへのご投稿フォーム

Related Article

Category

  • 言論人コーナー
  • 西岡 力
  • 髙橋 史朗
  • 西 鋭夫
  • 八木 秀次
  • 山岡 鉄秀
  • 菅野 倖信
  • 水野 次郎
  • 新田 均
  • 川上 和久
  • 生き方・人間関係
  • 職場・仕事
  • 学校・学習
  • 家庭・家族
  • 自然・環境
  • エッセイ
  • 社会貢献

ページトップへ