大久保俊輝 2 – 道徳が広がらない理由
大久保俊輝
モラロジー研究所特任教授
●身で読み、身で示す
道徳本来の持つ力、すなわち素材のほうが、それを広めたい教師の力より勝っているからではないだろうか。それは、素材は素晴らしくとも、料理する腕が低いということである。ならばどのようにして腕を磨き高めたらよいのかとなるだろう。
答えは簡単である。第一線で、真理を、現実を身で読んでいないからである。
釈迦や孔子をはじめほとんどの賢人・偉人は、罵倒され投獄され死の宣告を受けてもなお信念を通して生きてきたわけである。あの聖徳太子でさえも家族すべてが惨殺されているのである。モラロジーの創建者・廣池千九郎博士も多くの試練を乗り越えてもなお心身を呈して生き抜かれ、命を削ぎ落とすように論文を残されている。本来ならばその文言は知識でなく、身で読むことが、身で示す(行動で示す)ことが基本であるべき、と私は思っている。
●赤裸々に伝える授業
実践者と伝言者は明らかに異なる。綺麗事や礼節ばかり説いても何の説得力があるだろうか。能書きもいい加減にしないと、若者は誰もついてなど来ることはない。それを知っていてなおかつ、理屈、屁理屈をこねくりまわして自尊心のみ高めている偽善の姿に、誰が感化をされるだろうか。その意味でも、最困難なところへ出向いて汗しながら、考え、議論して、涙し、笑い、怒りしながら、先人の文言を「身で読む」必要があるのである。
例えば、私が折りあるごとに出向いている、ごみ処理場の匂い、食肉処理場の血だまり、災害現場の悲惨、少年院の表情、こども病院の親、児童相談所に出向くことをなぜしないのか。できないのではく、自ら関わらないのに、よく知ったかぶりの講話や講義ができるものだ。と、私は狡さを見抜いてしまう。
ある時、熱心な青年教師が子供たちに災害について教えたいのでと校長室に相談に来た。私は、休みを与えて災害現場へ直に行くように話した。彼女は帰ってくるなり私に報告に来た。「何もできませんでした」と言って涙した。その思いを子供に赤裸々に伝える授業となった。子供たちも教師も真剣な眼差しで聴き入り、よい伝達会となった。
このように、道徳は行動なくして伝わることはないと私は主張し続けているが、道徳の先輩諸氏からは、君のは生徒指導で、道徳ではないと否定され続けている。
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