西岡 力 – 道徳と研究17 誰が拉致を隠したのか
西岡力
モラロジー道徳教育財団教授
麗澤大学客員教授
●日本政府が最初に拉致を認めた梶山答弁
一般国民の多くが拉致を知ったのは1997年、横田めぐみさんの拉致がマスコミで報じられた時以降だろう。2002年、小泉首相の訪朝で金正日が拉致を認めたときから、洪水のような報道があり、拉致に関する認知度は最高潮となる。横田めぐみさんのご両親などは、町を歩いていても知らない人から次々に声をかけられるほど有名になった。
少し、知識と関心がある人は1987年の大韓航空機事件、翌88年の金賢姫の記者会見を思い出すかもしれない。そのとき金賢姫は、李恩恵と呼ばれていた拉致被害者の女性から日本人化教育を受けたと証言した。彼女の証言を受けて88年3月26日、参議院の予算委員会で梶山静六国家公安委員長が、「李恩恵」だけでなく蓮池さん夫妻、地村さん夫妻、市川修一さん・増本るみ子さんたち3組6人のアベック失踪事件について「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚だ」という歴史的答弁を行った。
〈昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、おそらくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、ご家族の皆さん方に深い同情を申し上げる次第であります〉
日本政府が最初に拉致を認めたのがこの梶山答弁だ。しかし、本書を読んでいる読者の多くは梶山答弁すら知らないのではないか。というのは、この歴史的答弁をマスコミが無視したのだ。朝日、読売、毎日、NHKは全く報じなかった。かろうじて産経と日経がベタ記事で報じただけだったからだ。
●大物政治家による捜査妨害があった……
梶山答弁を黙殺し、日朝国交に進もうとしたのはマスコミだけではない。政治家も主犯だった。金丸信という自民党の大物政治家が、拉致犯人への警察の捜査を妨害したという証言が警視庁関係者から出ている。
最初にこの問題を書いたのは、「文藝春秋」1998年6月号の加賀孝英氏と文藝春秋取材班の共同論文「拉致問題追及で重大疑惑――笹川陽平日本財団理事長 金正日への衝撃密書」だ。その中で、こういう記述がある。
〈事件はこの金丸訪朝に関連して起こった。それは李恩恵の件である。韓国側からの情報提供を得、警察庁では警備局の審議官をトップに十数名からなる「李恩恵身元割出調査班」を設置。警視庁でも、通称「ウネ・チーム」を置き、各都道府県警にも同様の操作チームを置いて大々的にこの拉致問題に取り組んだ。そんな中、捜査に光を投じたのは、「Xという男が以前、連れていた女性が李恩恵に似ている。金と呼ばれていた」という情報だった。そしてそこから捜査当局は李恩恵拉致に関わったと見られる国内の、X率いるY、Z、3人のグループの存在を掴んだ。Xは北朝鮮貿易のドンとも言える男。朝鮮総連の幹部だった。YとZも実業家だった。今私の手元には、その時の計7枚の捜査関係資料がある。彼らがどんな男たちだったか、「秘」と文字のうたれた資料は告げている〉
この資料というのは実は関係者に出回っていた「むかごリスト」という物で、私もコピーを持っている。文春論文の引用を続ける。
〈まずX-毎年、金日成の誕生日の誕生祝賀会に出席し、北朝鮮にいった際は国賓待遇を受ける。北朝鮮に高額の献金をしており、勲章を数回受章。Y-捜査の端緒は、昭和62年12月7日、大韓航空機爆破事件の関係者宮本明と係わっている不審外国人を知っているとの情報を入手したことによる。そこでYの名前が出た。Yは昭和61年6月13日、国籍を北朝鮮籍から韓国籍に変更。自宅には不審なアンテナがあり、情報によると大型無線機がある。深夜、ビーンという無線機発信音がしてマンション内の住民が騒いだことがある。会社の天井裏はカーペットを敷いて寝泊りできるようになっていて、会社の書棚に日本国旅券十数冊余りが入っているのを内装工事人が目撃。Yは怒って黒いナイロン袋で書棚を隠蔽した。そしてZ。沿岸徘徊人。沿岸徘徊人とは、北朝鮮の工作員が日本の海岸に潜入、あるいは脱出する時に海岸で補助する役目を持つ〉
このX、Y、Zを李恩恵拉致に関係しているとして調べていた。
そして、「平成2年」、金丸訪朝の年、1990年だ。〈5月初め、警視庁に警察庁、検察庁、警視庁外事など関係各所の幹部約150名が集められた。そこで、5月10日付のX及び朝鮮総連の家宅捜索令状と、5月14日付のYの逮捕令状が用意された〉。
Xというのが総連の大幹部だ。Yが無線をやり、日本のパスポート10冊余を持っていた朝鮮人だ。Xの家の家宅捜索令状だけでなく、朝鮮総連本部の、あとで聞くと朝鮮大学校も家宅捜索令状に入っていた。そしてYの逮捕令状が用意された。
〈朝鮮総連の家宅捜索の際には、機動隊の動員がかけられ、総勢450名の捜査体制になることが告げられた。ところが、家宅捜索に入る前日の9日、突然警視庁に捜査官らは呼び出された。ある警視庁幹部が重い口を開いて、こう言う〉
〈……その時、幹部が言ったことは、「いろいろあって詳しいことは言えないが、この件の捜査は本日を持って打ち切りとする」。そんな言葉だった。つい2、3日前、捜査方針の説明を受けて、「やるぞ」と言っていただけに、えっ!という顔を全員がしていた。この件については緘口令が敷かれた。別の警視庁関係者はこう言う。「金丸訪朝でつぶされた。そう聞いている」〉

朝鮮総連〈在日本朝鮮人総聯合会〉(東京都千代田区)
●訪朝のためにつぶされた
これはまだ金丸氏が生きていた時に書かれたものだが、名誉毀損等で訴えられていない。
同じことについて「産経新聞」が、2001年12月16日に書いている。「文藝春秋」は98年だから3年後だ。「朝鮮総連元幹部の外国人登録法違反――故金丸氏捜査に圧力」という見出しの記事だ。この時はもう金丸氏は死んでいた。
〈平成2年5月に警視庁公安部が摘発した朝鮮総連の元幹部らによる外国人登録法違反事件の捜査過程で、日朝関係への影響を懸念した自民党の金丸信元副総裁が捜査を朝鮮総連などに拡大しないよう、捜査当局に圧力をかけていたことが明らかになった。警視庁による朝鮮総連中央本部や朝鮮大学校への家宅捜索は行われず、捜査当局内部からも捜査が不十分だと疑問の声が上がっていた。金丸氏は同年9月に訪朝した〉
産経の記事では、拉致との関係は書いてなくて、外国人登録法違反とだけ書いてあるが、外国人登録法違反を入口にして調べるということはあるわけだ。5月に朝鮮総連中央本部まで家宅捜索をしようとしていた。
ここでも名前は出てこないのだが、このXというのは朝鮮総連の元副議長で東海商事という朝鮮総連が持っていた貿易会社の会長をやっていた人だ。
土地ブローカーみたいなことをやっていて、帝国ホテルに部屋を持っていた。バブルの時大変もうけていた。平壌にX通りというのがある。当時50億円とも30億円ともいわれる巨額の献金をしたので、通りに彼の名前がついた。しかしその時の彼の日本におさめた税金はゼロだったと言われている。北朝鮮で国賓待遇を受けるというのも多額の献金の結果だった。
朝鮮総連の大幹部が八重子さん拉致に関係していたのかどうか。そして、金丸という政治家が捜査を妨害したのか、という疑惑が浮上してくる。
ただ、これは90年の段階の捜査だ。その後警察は、帰国した地村富貴恵さんたちからかなりのことを聞き取っている。
Xが本当に関係していたのか、金丸氏が捜査を妨害したとすれば、本当に国賊だと思う。
●日朝2国による茶番劇で「なかったこと」に
梶山答弁の2年後、90年9月その金丸氏が田辺元・社会党元委員長とともに訪朝し、金日成と会談した。当時の海部首相は金丸氏に金日成宛の親書を託していた。しかし、北朝鮮の最高権力者に拉致被害者救出を交渉できる絶好の機会を日本側が自らつぶした。金丸・田辺両氏は拉致問題を一切持ち出さなかった。海部首相の親書にも、戦前の朝鮮統治に対する謝罪の言葉はあるが、拉致に関する記述は一言も入っていなかったからだ。国会で治安の最高責任者が「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と国名まで特定して答弁していたのに、その国を訪問した与野党の大物政治家が「なかったこと」にしてしまった。
金丸訪朝の後、8回、日朝国交正常化交渉が行われた。外務省もその席で拉致問題を「なかったこと」にした。警察の必死の捜査で李恩恵と呼ばれていた被害者が田口八重子さんだと判明した。その事実を公表した埼玉県警は金丸事務所から「たかがキャバレーの女1人で外交を邪魔するのか」という圧力を受けたともいう(当時、関係者が話していた逸話だが、事実確認はできていない)。その結果、外務省は第3回交渉で田口八重子さんの所在に関する調査を北朝鮮に依頼した。すると彼らは「インポと結婚して子どもができるか」(意味がないことを続けられないという俗語)という暴言を吐きながら会談場を退席した。
その後、外務省は裏交渉で、本会談の席では田口さんの問題を取り上げない、ただし、本会談休憩中に首席代表である大使が席を外しているときに実務協議と称して日本側が調査の結果をたずね、北朝鮮側は黙って聞いているという妥協案をまとめた。この妥協案に従い4回から8回までの交渉が事実上、拉致問題を棚上げにしたまま行われた。日本側は拉致問題を会談に出したと国内に説明し、北朝鮮側は出なかったと上部に報告する茶番劇がつづいた。梶山答弁で拉致が認められた蓮池さん夫婦、地村さん夫婦、市川さん・増元さんについては8回の交渉で外務省は一度たりとも出さず、「なかったこと」にされた。
私は金丸訪朝の直後である1991年1月に月刊「諸君!」に日本人が拉致されているという論文を寄稿した。学者として日本で初めて拉致について書いた論文だった。まわりから身の危険はないかと何回も質問され、匿名の脅迫状をもらった。
(この項続く)
(令和3年4月8日)
※道徳サロンでは、ご投稿を募集中!