川上 和久

川上和久 – 武士道を体現した「武士のたしなみ」――米国大統領に感銘を与えた柔道

川上和久

麗澤大学教授

 

 江戸時代、長く鎖国政策がとられていた中で、いわば、謎のヴェールに包まれていた日本の「武士」。

 幕末に遣米使節としてニューヨークのブロードウェイを行進し、その威儀を正した立ち居振る舞いが、当時の米国市民に驚きをもって迎えられたことは、前回詳述した。

 そして、その「武士」の持つ精神性が、新渡戸稲造の著書『武士道』によって英語で明らかにされ、ベストセラーとなって、日露戦争の勝利に貢献していくことになることも述べた。

 だが、「武士」がどれだけ強いのか。明治維新によって「武士」そのものが消滅した中で、その精神性が受け継がれているにしても、その実態は、ヴェールに包まれていたと言えよう。

 それを、渡米して明らかにしたのが山下義韶よしつぐという人物であった。今回は、その山下義韶について、新渡戸稲造の「武士道」との車の両輪で紐解いてみたい。

 

 

●「講道館四天王」の四人目は……

「講道館四天王」という言葉は、聞いたことがある人も多いだろう。講道館は、嘉納治五郎が開いた柔道場で、柔道の聖地である。

 嘉納治五郎は1860(万延元)年に、灘の清酒を運ぶ廻船業の息子として、現在の兵庫県神戸市に生まれ、14歳で官立開成学校(後の東京帝国大学)に入学して政治学や理財学を学ぶかたわら、天神真楊流柔術や起倒流柔術などの古武術を学び、1882(明治15)年に、下谷町永昌寺で講道館柔道を創始した。

 その最初の門弟が、講道館四天王の一人、富田常次郎である。富田は1865(慶応元)年に現在の静岡県沼津市に生まれ、嘉納治五郎の父親にその利発さを見出されて上京し、嘉納治五郎の書生を務めるようになった。そして、1882(明治15)年に講道館が開かれると、最初の門弟となったのである。1887(明治20)年には静岡県韮山の伊豆学校の教師となり、講道館韮山分場を創設し、学習院でも柔道を教えている。

 講道館四天王の2人目、西郷四郎は、1866(慶応2)年に会津藩士・志田貞二郎の三男として生まれている。16歳の時、会津藩家老を務めた西郷頼母の養子となっており、頼母が実の父親ではないかという説もある。頼母は、会津藩秘伝の大東流合気道柔術の継承者で、柔術の達人でもあり、四郎にもその素養があったと言われる。

 四郎は陸軍士官を目指して上京したが、身長が5尺(約150センチメートル)と小柄であったため断念、嘉納治五郎と出会って1882(明治15)年、講道館に入門する。

 四郎は、豪快に相手を投げる独自の技「山嵐」で柔道界の花形となった。中でも、1886(明治19)年に開催された警視庁武術大会で、照島太郎を倒し名声を上げ、富田常次郎の次男、富田常雄が著した『姿三四郎』のモデルとなった。

 3人目は横山作次郎である。作次郎は、1864(元治元)年、現在の東京都中野区鷺宮に生まれている。井上敬太郎に天神真楊流を学び、他にも起倒流を学んでいたが、1886(明治19)年に、講道館に入門する。警視庁や東京高等師範学校で柔道を教えている。

 4人目は山下義韶である。義韶は1965(慶応元)年に、現在の神奈川県小田原市で、武芸の指南役の家系に生まれている。1884(明治17)年に講道館に入門し、後に、警視庁や慶應義塾の柔道の師範役も務めている。

 

 

●日露戦争を勝利に導いた、影の立役者

  特筆すべきは、嘉納治五郎自身もそうだが、四天王それぞれが、武士の素養であった古武術を学んでいるということであり、そんな素養を土台に講道館の柔道を完成させていったということだ。

 現在の、オリンピックの種目である「柔道」というスポーツとは違う「武士の素養」が彼らの底流には流れていたと言っていいだろう。

 加えて、講道館柔道は、「世界への眼」を持っていることが、日露戦争の奇跡にも結び付いていった。

 山下義韶は、1902(明治35)年、アメリカのシアトルに赴く。山下は、ここで演武や講話を通じて柔道の普及に尽力している。

 こういった義韶の活躍はマスメディアでも大きく報じられたのだろう。義韶はふで夫人と渡米しているが、1904年、カリフォルニアで、ふで夫人が義韶に「腕ひしぎ」という技をかける写真も現存している。

 セオドア・ルーズベルト大統領は、こういった義韶の活躍も目にし、柔道に大きな関心を示していたようで、1904(明治37)年11月には、セオドア・ルーズベルト大統領の招聘しょうへいで、富田常次郎が前田光世らと「柔道使節」として渡米している。

 有名なのは、1905(明治38)年3月29日、ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下義韶の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kgあったといわれている)と試合をし、義韶が抑え込みで勝利するという離れ業をやってのけたことだ。「小よく大を制す」。まさに、日露戦争のさなかである。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ、義韶は2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となった。

「日本の柔道はすごい」。その凛とした佇まいだけでなく、柔道に体現されていた日本の武士の素養に、セオドア・ルーズベルト大統領は深い感銘を受けたのである。

 1920年代半ばに、セオドア・ルーズベルト大統領の息子のカーミット・ルーズベルト氏は来日した際、嘉納治五郎氏や山下義韶、ふで夫人と会い、その記念写真も残っている。

 新渡戸稲造の『武士道』を体現する「武士のたしなみ」。それを実際に「強さ」で示したのが講道館柔道だった。嘉納治五郎やその高弟達も、日露戦争を勝利に導いた、影の立役者であったと言えるのではなかろうか。

 

(令和3年4月1日)

 

 

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