大久保俊輝 – 道徳はなぜ、浸透しないのか
大久保俊輝
モラロジー研究所特任教授
●「涙したことはあるか」
私は千葉県の公立小学校で校長を務め、定年退職した後、新任校長の育成担当者、主席指導主事として、たくさんの先生方を指導してきた。現在は、教員を志望する学生たちを育てている。彼らは、外見も清楚で、振舞いにも礼節があり、人柄もよく非の打ち所がない。しかし肝心の「人間的な魅力」を私はあまり感じたことがない。そして、こうした教師を慕う児童生徒はおのずと少ない。概してこの種の教師が多く存在してはいないかと問いたい。私は毎時「児童生徒にそして学生の心を痺れさせ、スイッチを入れるような授業ができているのか」と自問自答している。そして、講義の最初に学生に質問をする。「これまで受けてきた多くの授業の中で、感動したことはあるか。感化されて涙したことはあるか」と問う。そして「自らが感動せずして、児童生徒に感動を与える教師になることができるのか」と25年問い続けているが、挙手したものは誰一人としていない。これが実態なのである。
●道徳的水脈に至らせる
自己の慢心を排除するために、最初に試験問題を学生に提示する。「私が行う15回の授業を、根拠をもって批判しなさい」と話している。いくら高尚な話をしても伝わらなければ意味がない。それは専門性が高いほど、譬えを工夫して平易に理解させることができるものである。逆に簡単なことをこねくり回して難しくするのは不誠実で高慢の証のように私は感じられるのである。
また、道徳に関する生徒指導論では、必ずその日近辺に起きた事件・事故を題材にし、立場を変えて考え議論するように仕掛けている。そこで自らの足りなさを実感し、謙虚に授業に臨む姿勢ができるのである。すなわち道徳的水脈に至らせるのである。講義後の学生評価は極めて高くなるが、この程度の授業で満足されては困るのも事実である。
●諸先生に不足しているもの
さて、道徳は何のためにあるのか。道徳のためにあるのか。そうではないはずである。人の幸せのために、一人も見捨てずに幸せになっていくためにあるとするなら、自らの命を鼓舞して行動してこそ児童生徒そして学生の心に感動が湧きあがり、道徳が底流となって広がるのではないだろうか。いつも立派なことばかりを言っているのではなく、自らの至らなさや恥部をさらけ出して、それを笑い飛ばしながらも、謙虚に不変の真理へと導く人間臭い生き様が、現在の道徳を推奨する諸先生には不足しているように思えてならない。それはある意味で「何かを失うものを畏れている」ようにも感じられる。
聞き手が読み手を理解できないのは、どちらに課題があるのか。勿論それは明らかに教師側である。一人ももらさず心肝に染めさせたいならば、自ら咀嚼して懐に落とし、可能な限り平易に伝えることが道徳的な配慮であり真の人間性の滋養であり求められる専門性ではないだろうか。
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