髙橋史朗

髙橋史朗 -「大和の国は言霊の幸はふ国」――歴史継承の志が日本的感性の根源

髙橋史朗

モラロジー研究所教授

麗澤大学大学院特任教授

 

 

●家庭・地域・学校の架け橋となった和歌

「感知融合の道徳教育」について修士論文を書いた麗澤大学大学院の土屋康子さんは、かつて小学校長・幼稚園長をしていた渋谷区立臨川小で、創立140周年を祝し、全校を挙げて「学校オリジナルカルタ」を制作するというユニークな実践に取り組んだ。

 子供が読んだ575音の上の句に、地域や保護者、教職員の大人たちが次のように575音の下の句を加える「臨川短歌」に発展し、学校と地域、家庭を繋ぐ架け橋となった。

●学校は 明治十年 できました  涼しい川面に 鮎跳ねる 見ゆ
●臨川は いつも明るく 楽しいな  疎開の涙も 思い出話に
●またここに いつか集うよ 仲間たち  幾年過ぎても 会えばあの頃
●空高く 校歌がつなぐ ふるさとを  孫と再び 集う嬉しさ
●学校で 楽しく笑う 子供たち  その日の出来事 聞ける幸せ
●くらやみに ホタルがきらり 光ってる  優しい光が 照らす 未来を
●いつまでも 心に響く 校歌の詩  大人になっても 消えることなく
●たくさんの 写真が語る ヒストリー  顔寄せあって 思い出 語る
●とどくかな わたしの書いた メッセージ  世界に届け あなたの思い

 

 

●「言の葉の道」「敷島の道」としての和歌

 「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」という古今和歌集序文の言葉は、感性に響く真実を言葉にしたのが和歌(やまとうた)であるという、日本人の心の構造をみごとに表現している。和歌のことを「言の葉の道」という。

 禅には端座正身の型があり、華道、剣道、柔道、茶道、能にも、のがれることのできない型の確立がある。「敷島の道」として言い継ぎ語り継がれてきた和歌の精神も、31文字の律動(リズム)の型に身を置けば、知らず知らずのうちにおのずから日本の道につながることを私たちに教えているのではないか。

 古今集序文には、「やまとうた」は、「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、目に見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ」る力があると書かれているのは、やまとことばが57577という数の形をとった時にはものすごく大きな力を発揮することを示している。

 山上憶良<やまのうえのおくら>は『万葉集』で「大和の国は言霊の幸はふ国」と表現したが、言霊とは言葉の持つ霊力、質的な力を意味している。言葉には神秘的な力があって、それが人々の禍福を左右する、人間に幸福をもたらす、という意味である。

 言葉にはいのちが宿っており、言葉の力には人を活かす(活人剣)と殺す(殺人剣)の両側面、両刃の剣の側面があるが、人間に幸福をもたらす「言霊の幸はふ国」が「大和の国」である。

 和歌の中にこもった力、エネルギーが国の隅々まで満ち満ちている国、それが日本なのだというのが、「大和の国は言霊の幸はふ国」という言葉に込められた意味といえる。高校の国語の教師であった私の父は自分の部屋を「敷島の間」と名付けて毎日「和歌日誌」にびっしり和歌を書き綴った。

 

 

●礼儀作法と姿勢――道元「動止威儀」とは?

 日本の礼儀作法というものも、則<のっと>るべき「規矩<きく>」(基準、物差し)として、歴然たる身の「かたち」を含んでいる。その身の形、姿は進退動静の形、姿であって、静止し固定した型ではない。剣道や柔道の「かた」も動静の「かた」である。

 姿勢という言葉も非常に意味が深い。姿は形式(フォーム)であると解されるが、それと同時に勢い(エネルギー)であるところに、日本的な「かた」の比類なく深い意味がある。

 威儀を整えるということは、歴史的に受け継がれてきた「かた」に身を従えることである。道元はこれを「動止威儀」と呼んだが、威儀とは、日本の道の規矩としての「かた」であり、茶道の「かた」もこの動止威儀である。座禅は不動の姿であるが、その姿は同時に勢いであり、先人たちは私たちにこのような日本の芸道継承の「かた」を伝えてきた。

 座禅は仏道継承の「かた」であり、座禅に身を挺せずして仏道を極めることはできない。「かた」は身体の挺身を要求する。身体を離れると、「かた」の本質は失われるからである。日本人が家庭教育で重んじてきた「躾」も、身のすがた・かたちを美しくすることによって心を育てようという教育原理が背景にあるといえよう。

 

 

●歴史継承の「かた」――本居宣長「いつはりのますらをぶり」とは?

 ここでいう「かた」は、あくまで歴史継承の「かた」であり、「かた」はつくる側から理解されてはならない。「かた」につくられるという側面から理解されて初めて「かた」の意味は明らかになる。「かた」は個人がほしいままに自己の創意をもってつくり出すものではない。それは単なる形式または様式であって、「かた」ではない。人間が「かた」をつくるのではなく、人間は「かた」につくられるのである。

明治の文明開化以来、私たちの生活のあらゆる分野にわたって、このような「かた」が失われたことが、今日の教育荒廃、心の荒廃の根因といえるのではないか。なぜ「かた」が崩れたかといえば、継承的歴史観が衰え、発展進歩のヒストリーの感覚が跋扈し、「かた」は自己を束縛する停滞の原理のように誤解されるようになったからである。

歴史継承の「かた」は人を人たらしめ、日本人を日本人たらしめる根本原理であり、日本的感性は日本の歴史の骨髄につながるものである。歴史継承の志こそが日本的感性の根源であり、感性の有無が、教育に魂があるかないかを示す唯一の試金石といえる。

私の郷里には相撲の元祖・野見宿禰<のみのすくね>の墓があるが、土俵も禁じ手も「待った」もなくして、徹底的に闘わせたほうがスポーツとしては面白いという人がいる。しかし、禁技も土俵も歴史の「かた」であり、その中に古来より一貫した日本文化の感性があり、道や文化を離れた力は暴力の「仁義なき戦い」にすぎない。

「かた」は一歩誤れば、固定への傾向をもって形骸化し、日本的感性が欠如すると、本居宣長が「いつはりのますらをぶり」と呼んだように「かたくな」なものになってしまう。かたくなな「いつはりのますらをぶり」を男らしさとはき違えてはならない。本居宣長が「たをやめぶり」と呼んだものが日本的感性といえるのではないか。詳しくは、拙著『日本文化と感性教育』(モラロジー研究所)を参照してほしい。

 

(令和3年2月22日)

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