川上 和久

川上和久 – 新渡戸稲造④ 『武士道』刊行の40年前に米国人の度肝を抜いた武士たち

川上和久

麗澤大学教授

 

「ワシントン海軍工廠での使節団」(Wikimedia Commonsより)

 

●米国民に「日本の武士」を直接知らしめる契機となった遣米使節団

 1900(明治33)年に刊行された新渡戸稲造の『武士道』が、当時のセオドア・ルーズベルト米国大統領をも感嘆させ、日露戦争の勝利に少なからぬ貢献をしたことは前回までに何回か述べたとおりである。

『武士道』に書かれている内容が、当時の日本人の精神性、さらには倫理観をも体現していたからこそ、「そうだったのか」というような共感が世界で広がったと思われるが、米国では、明治維新以前の本物の武士に接した経験がどのくらいあったのだろうか。

 もちろん、日米での交渉にあたった米国の当事者は、日本の武士と直接接していた。1854(安政元)年、幕府は前年に続いて、今度は軍艦9隻を率いて来航したペリー提督との外交交渉を行い、日米和親条約を結んだ。

 このとき幕府で条約交渉を担当する応接掛の首席に任命されたのが林大学頭<はやしだいがくのかみ>であり、幕府直轄の昌平坂<しょうへいざか>学問所の塾頭として官吏養成の責任を担っていた。

 彼は、臆することなく自説を述べ、ペリー提督の言いなりにならず、武士としての立ち居振る舞いで、ペリー提督を圧倒する迫力だったと言われている。

 しかし、米国の国民に「日本の武士」を直接知らしめる契機となったのが、1860(万延元)年に、日米和親条約の後に結ばれた日米修好通商条約の批准のために米国に派遣された「遣米使節団」の一行である。

 この遣米使節団については、当時の最新技術であった写真も数多く残され、米国の新聞等でも数多く取り上げられている。

 遣米使節団は、外国奉行の新見豊前守正興<しんみぶぜんのかみまさおき>が正使、副使の村垣淡路守範正<むらがきあわじのかみのりまさ>、目付の小栗豊後守忠順<おぐりぶんごのかみただまさ>以下、約80人の武士が米国海軍の蒸気船ポーハタン号に乗船し、1月に品川沖を出発した。

 ハワイのホノルル港で当時のハワイ国国王カメハメハ4世にも拝謁、3月にはサンフランシスコ港に到着し、船でパナマとキューバを経由して3月末にはワシントンDCに到着し、大歓迎を受けた。3月28日には第15代のブキャナン米大統領と謁見、この時、3人の使節は武家の正装である狩衣に萌黄色の烏帽子をかぶり飾り太刀を身に付けていたのが記録に残っている。

 一行はワシントンDCに3週間滞在し、スミソニアン博物館、国会議事堂、海軍造船所などを訪れ、ニューヨークに向かった。

 

使節を迎えるブキャナン大統領(Wikimedia Commonsより)

 

●米国民を感動させた、威儀を正した立ち居振る舞い

  6月には一行はニューヨークに到着し、6月16日には、使節団を歓迎してブロードウェイで馬車に乗った行進が行われた。その威儀を正した立ち居振る舞いに、多くのニューヨーク市民が感動したのだった。

 行進はダウンタウンからユニオンスクエアまで行われ、軍隊による閲兵式も行われた。沿道には米国の国旗と日本の「日の丸」が各所に掲げられたが、武士たちが、米国では国旗を非常に大切にし、星の数が当時の州の数の33あって、州の数が増えるにしたがって星の数が増えていく、米国の発展を象徴すると記録にとどめたものもいた。また、主権国家としての「国旗」の重要性、米国が日の丸を国旗として認めている喜びも記されている。

 沿道には約50万人もの観客がおり、当時のニューヨークタイムズ紙は「市の歴史のなかでもっとも華々しいイベントだった」と評した。

 このような熱狂的な歓迎を目の当たりにし、それを詩にしたのが詩人のウォルト・ホイットマンである。ホイットマンは1819年にニューヨーク州ロングアイランドで生まれた。父親は大工と農業を兼業していたが、彼が4歳のとき、ニューヨークのブルックリンに移住している。ホイットマンはすでに11歳で働き始め、満足な学校教育は受けていなかったが、見習い職工として印刷所で働きながら読み書きを身に着け、1838年からジャーナリストとして活動するようになる。

 当初は民主党の機関紙の発行などを行っていたが、奴隷制度に対する考え方の違いなどから民主党を離れ、1855年に詩集『草の葉(Lieves of Grass)』を出版、その後も評論『民主的展望(Democratic Vistas)』や随筆集『見本の日々(Specimen Days)』などを著し、1892年に72歳でこの世を去っている。

 ホイットマンは、武士たちの姿に感嘆し、「ブロードウェイの華麗な行列(A Broadway Pagent – Reception Japanese Embassy June 16, 1860)」という詩を残している。

 詳しくは参考文献をご覧いただきたいが、

「西の海を越えて遥か日本からやってきた
 頬が日焼けし、刀を二本差した礼儀正しい使節たち
 無蓋の馬車に身をゆだね、無帽のまま、動ずることなく、
 きょうマンハッタンの街頭をゆく」

“Over the Western sea hither from Nippon come,
Courteous, the swart-cheek’d two-sworded envoys,
Leaning back in their open barouches, bare-headed, impassive, 
Ride to-day through Manhattan.”

 という出だしで、その感動を詩にしている。

 そこでホイットマンは、武士たちを「思慮深く礼儀正しい(Courteous)」「超然として(impassive)」などという表現でその内面性を称賛している。

 欧米を進んだ国として自認し、進んだ科学技術を見せつけて野蛮国を開国させた、といったくらいのイメージを持っていた日本人が、堂々と、礼儀正しく、気品に満ちた姿で行進する。ニューヨーク市民は、その武士道精神に裏打ちされた毅然たる態度、一挙手一投足に驚かされたのだ。

 新渡戸稲造の『武士道』は、そんな「日本の武士たち」の毅然たる姿の内面に、初めて本格的にメスを入れるものだったからこそ、短期間に多大な反響を呼んだともいえよう。

 

(参考文献)

ウォルト・ホイットマン 木島始編  『対訳 ホイットマン詩集』 岩波文庫

宮永孝 『万延元年の遣米使節団』 講談社学術文庫

 

(令和3年2月22日)

 

 

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