川上 和久

川上和久 – 新渡戸稲造② その上京から『武士道』執筆まで

川上和久

麗澤大学教授

 

 

●鍛え抜かれた英語力

  戊辰戦争の敗者であった盛岡藩士の三男として生まれた新渡戸稲造。1871(明治4)年に、叔父の太田時敏の養子となり、上京した。
 当時、太田時敏は京橋で洋服店を営んでいた。
 この養父と母の期待を背負い、新渡戸は1873(明治6)年に東京外国語学校(のちに東京英語学校、東京大学予備門と改称)に入学する。

 だが、1877(明治10)年には東京大学予備門を退学し、札幌農学校に第二期生として入学した。札幌農学校は初代教頭として1年間在籍したウィリアム・スミス・クラーク博士が有名だが、クラーク博士が学長をしていたマサチューセッツ農科大学に倣ったカリキュラムのもと、新渡戸は、ここで3人のアメリカ人教師による英語の教科書を用いた英語の授業で徹底的に英語力を鍛えられることになる。
 ここで鍛え抜かれた英語力が、『武士道』という奇跡を生む一つの要因になったのだ。

 数十人の学生たちが3人のアメリカ人教師のもと、まさに少人数教育で日夜英語で勉強に励む環境は、スマホなどで他のノイズがどうしても入ってくる現代社会ではなかなか難しいかもしれない。しかし、それこそが英語力向上に効果をもたらすメソッドだったに違いない。

 

 

●アメリカ留学と国際結婚

 札幌農学校を卒業したのち、開拓使勤務を経て、新渡戸は東京大学文学部に入学するが、札幌農学校の授業に比べるとレベルが低く、ほどなく新渡戸はアメリカ留学への決意を固め、養父の時敏と長兄の七郎に費用を工面してもらって、1884(明治17)年に渡米する。

 渡米先は、メリーランド州ボルティモアにあるジョンズ・ホプキンス大学であった。
 ジョンズ・ホプキンス大学は現在、新型コロナウイルスの感染拡大で、毎日のように「ジョンズ・ホプキンス大学の集計による世界の新型コロナウイルス感染者数・死者数」として報道され、ますますその名声が広がっているが、昔から医学・公衆衛生学の研究に優れ、US Newsのランキングで医学大学院は常に全米1~2位、公衆衛生大学院は格付けが開始されてから一度も陥落することなく全米1位を保っている名門で、メリーランド州のアメリカ国立衛生研究所との関わりも深く、数多くの共同研究が行われ、ノーベル賞受賞者も数多く輩出している。

 もともとはボルティモアのクェーカー教徒(キリスト教プロテスタントの一派)であった実業家のジョンズ・ホプキンス氏(1795年 – 1873年)の遺産をもとに、1876年に世界初の研究大学院大学として設立された大学である。
 クェーカー教徒が設立した大学だけあって、当時、クェーカー教徒の数は世界でも約30万人程度ではあったが、この地域にはクェーカー教徒が比較的多く共住しており、従前からクェーカーに関心を持っていた稲造は、クェーカーの集会に参加するようになった。クェーカーの誠実さ、純粋さ、簡素さは、武士の子として育てられた稲造の感性にも合っていたようで、クェーカーに惹かれるようになっていった。

 一方、ここで稲造は、クェーカーのメリー・エルキントン嬢と出会い、数か月後にドイツに留学することになるものの、3年間の文通を経て、双方の親の反対にあいながらも、それを乗り越え、1890(明治23)年に結婚することになる。
 今では国際結婚は珍しくなくなったが、まだ19世紀末のことである。しかも、欧米人の目から見ると、日本人ら東洋人は、とかく劣等人と見られていたような時代であった。それを乗り越えた2人の意志の強さは、驚嘆に値する。
 この、2人の意志の強さで実現した国際結婚も、名著『武士道』という奇跡を生む一つの要因となった。

 

 

●「宗教教育がない日本で、どのように道徳教育をしているのか?」

 その後、稲造は1891(明治24)年に7年間の欧米留学を終えて札幌農学校に着任するが、脳神経衰弱症を患い、鎌倉、沼津を経て、カリフォルニアで転地療養することとなった。ここで『武士道:Bushido The soul of Japan』が執筆されるのだが、稲造はこの地で初めて『武士道』についての思索を深めたわけではない。その伏線があった。

 稲造は、序文で、ドイツ留学中に尊敬するベルギーの高名な法学者エミール・ド・ラブレー氏宅に招かれ、逗留していたときの思い出を書いている。

 ラブレー氏と散歩をしながら、日本の学校では特別な宗教教育がないことが話題となる。欧米では、キリスト教文化の中、宗教教育がごく日常的に行われているから、ラブレー氏は「宗教教育がない日本で、どのように道徳教育をしているのか?」と問われ、即答できなかった。

 しかし、稲造はよくよく考えていく中で、少年時代に学んだ道徳上の戒めが、学校で教わったものではなく、そのもとに「武士道」があることに気づくのである。

 また、メリー夫人から頻繁に「なぜ日本ではこのような考え方や習慣が一般的なのか?」と質問されたという。ラブレー氏やメリー夫人に満足のいく答えをしようと努めているうちに、「武士道」についての理解を深めることで、日本の道徳思想を解明しようという動機づけがなされたのだ。
 こういった偶然が重なることで、1900(明治33)年に、『武士道』は出版された。〔つづく〕

 

太田愛人 『「武士道」を読む 新渡戸稲造と「敗者」の精神史』 平凡社新書

草原克豪 『新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか』 PHP新書

(令和2年12月10日)

 

 

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