山岡 鉄秀

山岡鉄秀 – 道徳二元論のすすめ14-論語読みの論語知らず?

山岡鉄秀

モラロジー研究所 研究センター研究員

 

●『論語』が受け継がれる国……

 日本人は『論語』が好きですね。言い換えれば、日本人は総じて古代中国に一種の憧れを持っているようです。古典や、それを元にした小説に大きな影響を受けていることは間違いありません。かく言う私も子供の頃、人形劇「三国志」を熱心に観ていました。

 儒教の影響も大きいでしょう。孔子や孟子の影響で、中国には道徳心の優れた君子がたくさん居そうな錯覚をしている人も少なくないかもしれません。

 そのような錯覚をしていたのは日本人だけではありませんでした。『China 2049』を著し、中国が米国や日本を欺いて100年かけて世界制覇を狙っていることを警告したマイケル・ピルズベリーさんも、儒教に代表されるソフトな面が中国文化の主流であると信じ込んでいたことを反省していると告白しています。

 実は、中国文化の主流は儒教に代表されるソフトな要素ではなく、紀元前の春秋戦国時代に代表される謀略と覇権主義こそが主流なのだとピルズベリーさんは解説します。中国の外交は今でも春秋戦国時代の謀略と策略を範としているそうですが、昨今の中国の動きを見ていると大いに納得するところです。いわゆる「戦狼外交」がまさにそれです。

 とはいえ、中国の古典に優れたものがあることは事実です。今や『論語』からの引用が日常でなされる習慣が残っている国は地球上で日本だけかもしれません。中国本土では共産主義の下でほとんど雲散霧消してしまっています。その事実を忘れてはいけません。

 

 

●日本人には『論語』が受け継がれているのか

 不肖私も、自分の座右の銘を英語と日本語でそれぞれ持っています。日本語の座右の銘は「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」です。これは『論語』子路に書かれています。意味は、「すぐれた人物は協調を大事にするが、主体性を失わず、むやみに同調したりしないのに対し、つまらない人物はたやすく同調するが、心から親しくなることはない」ということです。

 つまり、君子たる人物は、常に主体的に自分の考えを持ち、付和雷同はしないが、同時に互いを尊重して和を大切にする、ということです。

 私は『論語』の読者ではなく、高校時代に漢文の時間に習っただけですが、なぜかこの一節が心に残り、座右の銘にしています。実行できているという意味ではありません。ここで表現されている基本姿勢は、「言うは易し行うは難し」なのは言うまでもありません。そして、論語を継承しているはずの日本人が一番理解していないことなのではないかという気がしています。

 私は20年以上海外で学び、働き、暮らして帰国しましたが、この「和して同ぜず」の姿勢はむしろ個人主義の欧米人の方が実践しているのではないかと思います。

 欧米にはディベートのカルチャーがあります。個人で意見が違うのは当たり前で、議論になっても、個人的な関係には影響させない、という前提があります。そういう教育を受けているのです。だから、意見が違うときははっきりと「I disagree(私はそう思わない)」と言いますが、それは喧嘩を売っているわけではありません。

 口角泡を飛ばず議論をしても、終わればにこやかにワイングラスを傾けて乾杯する。相手の人格攻撃はしない。これが欧米の教養ある人間が取るべき態度です。しかし、慣れない日本人はびっくりしてしまいます。どうして友達同士なのに、こんなに遠慮なく激しい議論をするのだろう?と思い、相手のあまりにも率直な物言いに傷ついてしまうことすらあります。

 相手を傷つけないように、常に婉曲な表現を好む日本人の習慣にはあまりにも異質なのです。私も慣れるまでは戸惑うこともありました。しかし、自分の意見を明確に述べずにただ静かに微笑んでいるだけでは尊敬されないどころか、軽蔑の対象にすらなり得ます。人前で自己主張することを避けることが一般的な日本社会でも、自己主張をいとわない人はいるし、評論家やジャーナリストなど、自分独自の意見を述べることを仕事にしている人もいます。

 しかし、往々にしてあるのは、元々ディベートのカルチャーがないために、意見表明が「俺が、俺が」という過剰な自己主張になってしまい、意見が違う相手に対しては「あいつはおかしい」という人格攻撃に安易に走ってしまう傾向が見られます。結果として、意見を同じくする小さなグループに収れんしてしまい、グループ間で感情的にいがみ合う結果になります。

 以前、欧米人のジャーナリストに尋ねられたことがあります。

「なぜ日本では内輪もめがこんなに多いのか? 我々は議論はするが、戦略的な目的のためには意見の違いを超えて協力する習慣があるのだが、日本にはないようだ」

 彼が言うことを日本語で言えば、大きな目標の為には小異を捨てて大同につくべき、ということですね。大局的な視点、戦略的発想、異なる意見を受け止める寛容さなどが必要になります。

どうも日本人は、個人的な好き嫌いという感情が優先し、「俺の考えがわからない奴は相手にしない」という発想に陥りやすく、結果として国家的危機に際しても痴話げんかの応酬ばかりしている傾向があるように感じるのは私の偏見でしょうか? 単なる偏見であればいいのですが。

 

 

●異なる意見を受け入れながら、和を大切に

 繰り返しますが、私は議論がすぐに痴話げんかになってしまう理由は、ディベートの文化が根付いていないからだと思います。意見の違いがすぐに感情的対立になってしまいます。

 しかし、日本人は中国で失われた論語の精神を最も継承している民族です。論語は日本でこそ生きています。「君子は和して同ぜず」は、優れた人物は主体的に自分の意見を持ち、他人の意見を尊重し、異なる意見を受け入れながら和を大切にする、ということだと私は解釈しています。日本人こそがこの考え方を最もよく体現できる民族であるべきではないでしょうか?

 先ほど、欧米にはディベートのカルチャーがあると言いましたが、アメリカ大統領選の大混乱を観ていると、欧米社会のモラルが急速に崩壊していることがわかります。

 主流メディアはもちろん、表現の自由を基礎とすべきSNSでさえ、都合の悪い意見を平気で封殺してしまい、政敵を貶めるデマを流し、卑劣な人格攻撃が横行しています。今や反対意見を述べることは身の危険を意味します。自分がどの候補を支持するかさえ口にできず、一般の主婦が銃を購入して射撃訓練を受けています。

 私が学んだ民主主義の象徴たるディベートのカルチャーはどこに行ってしまったのでしょうか? 明治維新以来、日本が手本として学んだ西洋文明が自死しようとしているかのようです。こんな混沌とした時代だからこそ、私たち日本人が論語の精神を思い出して、道徳ある社会の実現に努力しなくてはならないのではないでしょうか?

 それが、私たちが、「論語読みの論語知らず」であってはならないと思う所以です。

 

(令和2年12月2日)

 

 

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