川上 和久

川上和久 -「救国の雄」新渡戸稲造から学ぶこと①

川上和久

麗澤大学教授

 

白虎隊士の像(会津若松駅前)

 

●日本の近代化に貢献した明治維新「敗者」たち

 昨今は、「コンパ」という言葉もあまり使われなくなったが、私が大学生だった昭和50年代初期は、大学のクラスでの飲み会は「クラスコンパ(クラコン)」、ゼミでの飲み会を「ゼミコンパ(ゼミコン)」と称していた。
「コンパ」の語源はドイツ語の Kompanie、英語の company、フランス語の compagnieなどに由来し、明治時代の学生の隠語として定着していったらしい。
 思えば、「コンパ」という言葉が廃れたのは、大勢が集まって飲んで盛り上げる文化自体が廃れつつあるからかもしれない。昨今の「クラス飲み」「ゼミ飲み」「サークル飲み」「Zoom飲み」などの呼称は、「コンパ」とは異なり、自分のペースで「飲む」意味合いが強く感じられる。

 昭和50年代、私が20歳代だった学生時代は、何回コンパに参加したか分からないが、「コンパ」はその場の雰囲気に乗れないと不思議に苦い酒になるものだ。
 そんな苦い酒の思い出の一つが、クラスコンパでのこと。端のほうに座った私のクラスメイトが、会津若松出身だったが、つぶやくように、「薩摩っぽとは酒が飲みたくないんだよな」とやや不機嫌な様子で盃を傾けており、そのとき私は、クラスにいた鹿児島出身の同級生を、彼がなんとなく避けていたのを察したのだった。
 ちなみに、私の父方の祖父は新潟県長岡の出身であり、川上家の墓は長岡にあるので、それを彼に言ったら、「奥羽越列藩同盟だな」とやや口元が緩んだのを思い出す。
 明治時代から、飲みながら親睦を深める「コンパ」の文化はあったが、100年以上にわたり、前の戊辰戦争の記憶からいまだ抜け切れずに、当時の勝者と交わる苦い酒を飲んだ多くの人達がいるに違いない。また、そういった思いを狭量とは責められまい。
 それどころか、その「敗者たち」が自己のアイデンティティを求めながら、武士たちはその身分を失いながらも、目にもの見せてやるとばかりに血のにじむような努力を重ね、結果的に明治新政府が主導する日本の近代化に多大な貢献をしたことを忘れてはなるまい。
 白虎隊の中で、飯森山で自刃した19人。同じく自刃を図りながらも、瀕死の状態で会津藩士の妻に発見され、蘇生した白虎隊士の飯沼貞吉は、仇敵である長州の地で長州藩士・楢崎頼三など様々な人に助けられ、電信修技校に学んだ後、現在の総務省にあたる工部省に就職。その後も我が国の電信事業に多大な貢献をし、77歳で没し、白虎隊士19名の墓の横に葬られた。

 

新渡戸稲造の生誕の地

 

●新渡戸稲造と名著『武士道』

 戊辰戦争に敗れながらも、身を立てていくために並々ならぬ努力をし、結果として、近代日本の礎を築いた偉人の中で、現代に至るも、もっとも光を放っている人物として、私は新渡戸稲造をあげたい。
 なぜか。新渡戸が1900(明治33)年に英語で著し、出版された『武士道』は、たいへんな評判となった。日露戦争が勃発した1904(明治37)年3月、開戦とともに親日的な世論を形成し、講和を模索するためにアメリカに派遣された元司法大臣の金子堅太郎と駐米公使高平小五郎は、金子堅太郎がセオドア・ルーズベルト大統領のハーバード大学の同窓だった縁もあり、大統領の昼食会に招かれた。その際に新渡戸の『武士道』のことが話題にのぼり、後日、高平公使が大統領に一冊贈呈した。大統領はこの『武士道』を読んで感銘を受け、自分で何十冊も買い込んで家族や友人たちに配ったという。
 ルーズベルト大統領が、日本に非常に好意的に接し、日露戦争の講和に労を惜しまなかったのは、この『武士道』を読み、さらに、その精神が乃木将軍などに息づいていることを実感したからということは、想像に難くない。
 もし、新渡戸稲造が、『武士道』を英語で上梓していなければ、ルーズベルト大統領が日本の『武士道』に触れることもなく、日露戦争は歴史と違う結果になったかもしれないのである。いわば、新渡戸稲造は「救国の雄」だったと言えるのだ。

 稲造は、1862(文久2)年に、現在の岩手県盛岡市で、盛岡藩士・新渡戸十次郎の三男として生まれている。6年後が明治維新だ。このとき、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、「賊軍」となってしまった。その前年に稲造の父十次郎は病死しており、1871(明治4)年に、稲造は叔父の太田時敏の養子となった。
 太田時敏は、稲造の精神性に大きく影響したであろう人物である。戊辰戦争の折、盛岡藩が賊軍となってしまったのは先述した通りだが、盛岡藩は、早々に官軍側についてしまった秋田藩を攻め(秋田戦争)、新政府軍は、盛岡藩が降伏した際、その責で家老の楢山佐渡の切腹を命じ、太田時敏にその介錯を命じたのである。太田は楢山と親しく、武士の情けとして、親しい太田に声がかかったのかもしれない。
 しかし、太田時敏は、介錯を拒み、脱藩して上京してしまう。
「間違っていると思うことは断固拒否し、自分の思いを貫く」という太田時敏の武士としての生き方、「戊辰戦争の敗者として生き抜いていくために何をすればいいか」「東京にいる叔父を頼っての上京」。
 こういった歴史の偶然が、救国の名著『武士道』につながっていくのである。〔つづく〕

(令和2年11月4日)

 

 

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