菅野倖信 – 日本人の持つ独特な精神性“勝っておごらず”
菅野倖信(すがの よしのぶ)
㈱オリエンタルプロセス代表
モラロジー研究所特任教授
皆さんは日本のスポーツの中で、「ガッツポーズをすると反則負けになる」、そんなスポーツがあるのをご存知ですか?
それは、剣道です。
また、剣道だけでなく柔道は、「なるべくやめよう」、空手道はもっと重い「失格扱い」、そして、高校野球の周知徹底事項でも「慎もう」となっています。
こんな国が世界中、他にあるでしょうか?
これらは皆、一生懸命戦った(競った)相手への儀礼を欠く行為「人としての品格にかける恥ずべき行為」と戒める先人より伝えられる日本の心根としての武士道精神から来ているのです。
●日本精神の中心とは
1904年2月10日、明治天皇によるロシアに対する宣戦布告の詔勅が出されました。
そして同時に、政府からある通達が 日本全国の学校へ出されています。
その内容はというと、「日本がロシアと戦うにあたって、いたずらに敵意を煽るようなことをするべきではない」という国民の心得でした。
例えば、侮辱的なニュアンスでロシア人を意味する「露助(ロスケ)」などの言葉は慎みなさい。
私たち日本人にとって、戦いの場で相手を侮辱する行為は、日本の精神的伝統に反するものであり、たとえ敵であっても敬意を表し、最後まで正々堂々と死力を尽くして戦うことが大切であるということを、子供たちに教えてもらいたいという趣旨の通達でした。
恐らく戦争を始めるにあたって、このような通達を国民に出した国は、世界のどこを探しても無いと思います。これが日本の武士道精神なのです。
1900年に新渡戸稲造の『武士道』という本が アメリカで刊行されました。
当時の日本は明治維新以来、アジアの中で唯一爆発的な発展を遂げていました。
それを見ていた欧米諸国は、その秘密はどこにあるのかと興味を持ち始めていました。
そんな中 新渡戸稲造は、武士道こそが日本精神の中心にあると説き、武士としての考え方や生き方、命の締めくくり方を含めた、日本独自の道徳というものを世界に向けて紹介しました。
この本の中には、武士道には7つの核があると書いてあります。
「義」…正しさ
「勇」…勇敢さ
「仁」…情け深さ
「礼」…礼儀正しさ
「誠」…誠実さ
「名誉」…個人の誇り
「忠義」…主君への忠誠
そしてこれらは、各々が独立したものではなく、相互に関係し合い補完し合っているものだということがこの本に記してあります。
この新渡戸稲造の武士道という本は、初版が出されるやいなや世界に大きな反響を巻き起こしました。
中でも、時のアメリカ大統領だったセオドア・ルーズベルトは多忙であったにも関わらず徹夜で読破し、感動のあまり翌日には直ちに30冊を買って、要人に配り、「大変興味深いので読んで下さい」と勧めたそうです。
その後、日本とロシアが戦った日露戦争において、このセオドア・ルーズベルトが戦争終結のための講和条約を取り持ってくれましたが、実は日本も、もうこれ以上戦争が続けられないギリギリの状態で、このルーズベルトのおかげで戦争を終結することができたのです。

現在も献花が絶えないロシア兵墓地(松山市)
●「勝利という言葉は使えない」
また、日露戦争中ロシア兵の捕虜たちは、日本全国29ケ所に分散され管理されていました。
政府は、いまだ交戦中であるロシア兵の捕虜たちにもその名誉を重んじ、手厚く遇するよう通達をしています。
その中の一つ、愛媛県松山市高浜での話ですが、ロシア兵が高浜に上陸すると、何とそこにはロシア語で、「祖国のために戦ったロシアの勇姿を高浜の町民は歓迎する」との幕が掲げてありました。
また、彼らを出迎えた時の高浜の駅長は次のような挨拶をしています。
「祖国の為に戦った諸君を迎えられる役目を命じられ、光栄に思っています。と同時に、諸君の境遇の不幸は同情に堪えないものがあります」
この挨拶を聞いた捕虜たちは大変驚き、いたく感動したそうです。
また、ロシア兵の捕虜の生活は虐待などはもちろんなく、きちんとした食事が与えられ、松山市内を自由に散策でき、道後温泉にもよく行っていたそうです。
それだけではなく、当時識字率の低かったロシア兵捕虜への勉強もサポートしたそうです。
この日本の敬意を持った捕虜への接し方は、当時の国際法よりもはるかに手厚く、それは敵にも情けをかける武士道そのものでした。
そのため、戦後ロシア兵の捕虜たちは、「自分の生涯で天国のような所にいたことがある。それは日本での捕虜生活の期間だった」と祖国に帰り語っていたそうです。
また、日露戦争で 最も重要で最も激しい戦いが行われた旅順要塞での戦いで、日本軍の司令官だった乃木希典は、戦い終了後、ロシア軍の総司令官ステッセルと会見をすることになりますが、敵将軍の面目を保つために、日本の従軍記者に、「会見場の写真を撮らないように」 との指示を出しました。
しかし、それでは従軍記者の役目が果たせないということで、1枚だけ写真を撮らせることになりましたが、その際も敗軍の将の面目を保つために、ロシア側にも日本と対等に帯刀を許し、同じ人数で、かつ同等のスタイルで1枚だけ写真を撮ることを許しました。
さらに、この話には続きがあります。
敗れたロシア軍のステッセル将軍は帰国後、責任を取らされロシア皇帝より極刑を宣告されます。
これを知った乃木は、すぐさまロシア皇帝に手紙を送り、ステッセル将軍が旅順で祖国ロシアのために、いかに勇敢に戦ったかということを切々と訴え、処刑の取り止めをお願いしました。そしてこの手紙によってロシア皇帝の心は動かされ、処刑は中止され減刑されています。
また、この戦いが終わって日本がまずしたことは、ロシア兵戦没者の慰霊でした。
負けた方が辛く悔しいのだからと、先に敵軍の墓地と慰霊碑を作り、わざわざロシア正教の神父を呼んで慰霊祭を行ったのです。
このような話を聞いた外国人記者たちは、日本人の精神性に大変感動したそうです。
もう一人、東郷平八郎 元帥のお話もご紹介します。
東郷平八郎は、日露戦争の日本海海戦において、当時世界最強といわれていたロシアのバルチック艦隊を、ほぼ無傷で破った司令官です。
東郷は、日本海海戦後、敵将のロジェストヴェンスキー将軍が負傷して佐世保の病院に入院していた時、一人で見舞いに行っています。一人で行ったのは、もちろん敵将に対しての配慮からでした。
さらに、日本海を望む福岡県津屋崎に、日本海海戦勝利の記念碑を建てる話が持ち上がった時 東郷は、
「祖国のために亡くなった5000人ものロシア兵のことを思うと、勝利という言葉は使えない」
として、単に日本海海戦記念碑のみの碑文にさせました。
◎ 勝っておごらず、懸命に競い戦った相手への敬意と配慮を失する事は恥ずかしく見苦しいと戒める、これほど高潔な精神性を持った国民が、世界中他にどれほどあるでしょうか?
残念ですが、戦後のアメリカの日本人骨抜き政策によって、今、これらの独特な日本人の精神性が失われつつあります。
戦勝国の国々とその威光を傘にきた国内の勢力は、敗者となった日本の精神性(日本独自の道徳心)を、戦後75年の長年に渡り薄め、消し去ろうとその勢力を強め今日に至って来ました。
この流れを止めるのは難しいかも知れませんが、私は、本来の日本の国柄、日本人としての精神性を「不変と可変の法則」に準じて 、劇的に変化していく社会環境に強かに順応しながらも古(いにしえ)より培い伝えられし日本の心(精神性を)大切に未来へ伝えていきたいと思っています。
こういった先人達の行いの事実に気づきお伝えしていきことが私たちの使命だと思っています。
互いに思いやりいつくしみ合うやさしさのウイルスを日本中に、世界中に感染できればいいですね……。
お目通し、ありがとうございました。
※菅野倖信メールマガジンより
(令和2年8月4日)
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