山岡鉄秀 – 道徳二元論のすすめ10 – 映画「Fukushima50」から見える日本人の道徳性
山岡鉄秀
モラロジー研究所 研究センター研究員
●スクリーンに映る、公に尽くす日本人
新型コロナの影響で、映画「Fukushima50」を観るのが大幅に遅れてしまいました。「Fukushima50」は、言わずと知れた、東日本大震災の際に、福島第一原子力発電所に最後まで残って原子炉の制御に奮戦した50人の物語です。原作は門田隆将さんの『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』(角川文庫)です。
2011年3月11日のことは忘れようもありません。シドニーの事務所で仕事をしていた私は部下からの電話で、東北でマグニチュード9.0、最大震度7という日本の観測史上最大の地震が発生し、巨大津波が福島第一原子力発電所を壊滅させたことを知りました。
それからは日本の家族や友人に電話し、報道から目が離せない日々を過ごしました。あっという間に撤収する外資系企業社員たちの素早さ。そしてまさかの水素爆発。あの過酷な状況の中、現場で文字通り命がけの闘いを決行していた人たちの存在に気付くべくもありませんでした。
さて、映画「Fukushima50」は大好評で、私の知人には映画を観てから挙動が変わったという人までいました。私が行った映画館はソーシャルディスタンス確保で観客が散らばっていましたが、ハンカチで顔を覆う人たちの姿が暗闇でもわかりました。特に、2号機の爆発回避が困難となり、職員たちが別れのメッセージを家族に送るシーンでは嗚咽が聞こえました。
観客は何に感動していたのでしょうか?
それは、公のために、自らの命を顧みず、自発的に死を賭して戦う人々の自己犠牲の精神でしょう。やっぱりいざとなったら自らを犠牲にしてでも公のために尽くす日本人。上層部の理解を得られず、理不尽な状況に追い込まれようとも、必死の努力を惜しまない。そんな現場の人々の姿に多くの人が心打たれて涙しました。
もちろん、私も感動したひとりです。
しかし、正確に言えば、心では感動していても、頭では常に焦燥感を感じていました。どういうことでしょうか? それは、映画を観る視点によって、感動もすれば、むしろ焦燥感に悩まされもする、ということです。
●外国人がこの映画を観たら……
心で感動しながら、私の頭から離れなかったことは「この映画を海外で上映するのはまずいかもしれない」ということです。
正直に言うと、外国人がこの映画を観た場合、感動する前に、「なんだ、日本人ってこんなに危機管理能力が低かったのか」と思って失望されてしまう恐れがあるな、と思いました。
事実だから仕方ないのですが、とにかく、首相官邸の対応も東京電力上層部の対応も酷い。危機的な状況でこそ、リーダーは冷静さを失ってはいけないのですが、首相以下、口から泡を吹いて怒鳴り合っています。
この、人前で感情を露わにしてがなり立てるのは、特に海外ではアンプロフェッショナルと見なされて低評価されるのですが、日本人にはその感覚がなく、むしろ格好いいと思っている節すらあります。ある有名な大手証券会社では灰皿を投げ合っていたと聞きました。
対照的に、映画ではアメリカ政府高官と軍関係者がことさら冷静に描かれています。
日本駐在アメリカ大使が大統領に電話で報告します。
「大統領、日本政府は、これは日本の問題だから自分たちだけで対処すると言っていますが、とても日本単体で対処できる事態ではないと思います……」
これだと、日本政府に諸外国の支援を有効に活用する能力がないという印象を与えます。
状況を見守る米軍の将校がつぶやきます。
「世界で唯一、核兵器の攻撃を受けた国であれば、もっと事態を深刻に捉えるべきだろう」
日本人の状況認識能力が低いという印象を与えます。
このような極限状態に陥った場合、現地のリーダーに権限を委譲して、後方から全力で支援するしかありません。現場には吉田所長がいました。しかし、当時の民主党の総理大臣はヒーロー気取りで、よりによってヘリコプターで現地に乗り込み、貴重な時間とリソースを無駄にします。
自らに問題解決能力がないのに、現場に任せる、という決断ができないから、足を引っ張るばかりで事態を悪化させます。
上層部の決断力のなさ、責任回避、日本人の弱点が次々と露呈します。
結局、現場の人々が決死隊を組んで、素手でベント作業を行うことになります。これは文字通り、「特攻隊」です。高放射能で目的地点にたどり着けなかったチームは泣いて詫びます。
命がけで頑張ってくださった方々には感謝の言葉しかないのですが、危機管理としては、万策尽きて現場の自己犠牲に依存するしかなかったわけで、大失態とも言えます。
現場の必死の努力にもかかわらず、3月12日に1号機で、14日には3号機、15日には4号機で水素爆発が起き、建屋の上部が吹き飛びます。そして、2号機が爆発すれば、東日本全滅も現実的となる中、防ぐ手立てがないままに時間が過ぎます。死を覚悟した現場の人々は家族に別れのメッセージを送り始めます。
しかし、2号機は爆発しませんでした。その理由はわかりません。
●冷静で複眼的な視点を
現場で命がけで戦った人々に焦点を当てれば、「日本人はなんて公共心の高い、自己犠牲を厭わない、道徳心の高い民族なんだろう!」という感想になります。
一方、やたらと感情的になってわめきまくり、現場に責任を押し付けながら、効果的な支援ができない政治家や企業上層部の姿を見れば、「なんて危機管理能力が低い、アンプロフェッショナルな人々なのか。いたずらに現場の社員の命を危険にさらして、人命を大事にしない身勝手な民族だ」という感想になり得ます。
危機に際し、優れた公徳心を発揮する日本人もいれば、国や企業のリーダーでありながらも問題解決能力が低く身勝手に映る日本人もいる……。映画しか観ない外国人からすれば、日本人は道徳的なのか否か、全く異なる結論を導き出すこともあり得ます。しかし、これは私たちが外国の出来事を見るときも同様のことといえるでしょう。だからこそ、私たちは常に冷静で複眼的な視点を持つように努力することがとても大事なのだと思います。
そして、この「Fukushima50」と呼ばれる人々が、実は命令を無視して逃亡していたという虚偽の報道を行い、後で嘘がばれて謝罪した大手新聞社がありました。これは間違いなく不徳の極みですが、この新聞社が日本の企業であることもまた事実なのです。
(令和2年7月20日)
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