自己犠牲との向き合い方
道徳的・探究的キャリア教育を考える⑫
水野次郎
『こどもちゃれんじ』初代編集長
キャリアコンサルタント
モラロジー研究所特任教授
●あらかじめ示された価値
前回、ある中学校の研究授業でオー・ヘンリーの『最後の一葉』が題材になったことを書きました。対象は中学1年生でしたが、あるいは小学校であったり、さらに高校にもなると原文で取り上げられる、幅広い年齢層に親しまれてきた題材と言えるでしょう。広く知られた話なので詳細は記しませんが、主人公の少女とたまたま同じアパートに住んでいた老画家が、自分の命と引き換えに少女を救ったという物語。読み物教材による道徳授業を考えるうえで、とても心に残った研究授業でしたので、少し書いてみたいと思います。
当日に先立って、事前に使用教科書の案内と指導案が送られたこともあり、私も教科書に目を通しました。その時に少し意外性を覚えたのは、次の2つのことです。1つは「あれ? この物語はこんな内容だったのだろうか……」ということ。自分が記憶していた『最後の一葉』と、趣(おもむき)が異なっていたのです。そしてもう1つは、表題の横に添えられた「他者を思う気高い心――感動、畏敬の念」という、いわゆる道徳科・内容項目の記載。物語の内容に対する違和感とともに、この物語を読んで「考え、議論する」ための主題が「感動、畏敬の念」と示されていたことでした。
上記の2つは関わりがあることで、教科書に引用された文章と「他者を思う気高い心――感動、畏敬の念」という感情とが、私自身の中で直ちにつながりません。そこで図書館に足を運び、原典の英文と日本語の完訳を読んでみたのです。すると私自身が抱いた疑問が、すっと氷解して腑に落ちました。教科書では削除されていた、いくつかの重要な記述との遭遇。英語で書かれた原文には、老画家が取った行動についての布石が、しっかりと打たれていました。読み比べてみると、そのことがよくわかります(教科書によって削除されている部分が異なるでしょうから、ここで具体的に記載することは控えます)。
教科書に掲載できる文章量には限りがあり、削除しなければならない事情はあるのでしょう。しかし一方で、文学作品は作品全体で一つの世界を構成しているのであり、短縮版の限界は否めません。とくに小説には極めて論理的な側面があり、筋立てに少しでも瑕疵や矛盾があると、たちまち破綻してしまいます。たとえば「あの時、あのような行動をとった人間が、ここでこんなことを言うはずがない」というように。あるいは説明的な記述も、通常は必要最小限に留めています。ですから、もともと凝縮して研ぎ澄ませた表現を、さらに切り詰めたりすると、ただ単に筋を追うだけということになりかねない。この教科書の文章を読み、原文にあたってみた時、私はそのようなことを感じました。
●読書体験を発展させる、教師の働きかけ
事前にそのような感想を抱きながら、私は研究授業を参観しました。担当の教師は、子どもたちへのきめ細かい観察に基づき、きわめて誠実に指導案を作成したことが見て取れます。男子12名、女子21名の生徒が、この物語にどのような感じ方をするのか。そして「考え、議論する」という主題に対して、限られた時間の中でどう進めていけばいいのか。あらかじめ組み立てた議論の流れに沿って、対立する論点を顕在化しながら、生徒たちに話し合いを進行させていく手腕は見事でした。厳しい制約がある中で、次のような目標を立て、論点をいくつか示していったのです。
「生徒たちはじっくり考える必要のあることでも、その場のノリや勢いで済ませたり、多数の発言に流され、表面的なことを薄っぺらくなぞって終わらせたりすることがある。本教材をとおし、さまざまなとらえ方を知ることで、“他者を思う心”の在り方について深く考えさせたい」
生徒の発言一つ一つを受け止め、丁寧に議論を誘導した教師の指導技術には、感心するばかりです。生徒たちが真剣に討議をして、当初の狙いはかなり満たされた授業であったと感じました。
さらにもう1つ、素晴らしいと思ったことは、授業の最後に図書館司書が登場したことです。司書はオー・ヘンリーの作品が収められたワゴンを引いて現れ、「同じ作家の、いろいろな作品を用意していますから、ぜひ読んでくださいね」と、生徒たちに呼びかけていました。どれだけの生徒が本を手にしたのかは聞いていませんが、1人でも多くの生徒が、豊かな学びをしたことを願います。
●「気高い」とされる自己犠牲とは
さて参観した教師を交えた反省会では、別のクラスで議論になったことが話題になりました。すなわち「老画家は雨の中で絵を描くことにより、必ず命を落とすと決まっていたわけではない。結果として自己犠牲になったが、それを気高い行為と言えるのかどうかという意見交換がされた」ということです。子どもの感性が鋭いところで、まさに物語の全体を読んだうえで話し合うべき、本質的な問題と言えるでしょう。
このことについて、反省会ではかなり深く話し合われました。それを聞きながら、改めて私が感じたのは、自己犠牲という行為の取り扱い方です。『最後の一葉』で言えば、次のような疑問が浮かびました。
・とくに親しくしているわけではなく、たまたま居合わせた女性のために命を懸けることの気高さとは?
・そしてそれを、この切り詰めた作品の中から感じさせることは、可能なのかどうか?
・さらに言えば、そもそも作者はそのような意図でこの作品を書いたのかどうか?
「気高い行為」という観点からいえば、自己犠牲とは別の、芸術家としての職業的な尊厳という見方もできるかもしれません。キリスト教では、自己犠牲は最も尊い行為であるとされているそうですが、オー・ヘンリーが投げかけた主題は、いったいどこにあったのでしょうか。
こうしたことを考えると、現代の小中学生に「自分の命を差し出す気高い行為」として安直に示せる寓話かというと、疑問符をつけずにはいられません。震災をはじめ台風や大火災などの大災害時に消防や警察、自衛隊といった公務につく人が殉職した報道が出るたび、胸が痛みます。あるいは線路に落ちた人を助けようとして、逆に自分が命を落とす人。歴史をさかのぼれば、自分の主君であったり、所属する組織などのために命を失うという話は、数え上げれば枚挙にいとまがないでしょう。
ややもすれば人の命が軽く扱われた時代から、個人が守られるようになった今、子どもたちが命の重みをどう捉え、自己犠牲という問題にどのように向き合うのか。他人のために命を落とすことと、自分の命を大切にすることを対置させ、どの場合ならば気高い行為になり、どの場合は必ずしもそうとも言えないのか。その対立軸を脇に置いて、過去の名作の、しかも一つの読み方に頼り、重大な命の問題を扱うことの難しさを感じます。逆説的にいえば、自分の命を大切にすることが、他人の命を重んじる原点であることも、忘れてはならないと思うからこそ。
この教材だけでなく、過去の名作を扱う場合は、やはり原典をひもときながら議論を発展させると良いのではないでしょうか。そして読み方には多様性があることに気づかせ、たった一つの概念や価値基準に収斂(しゅうれん)させないことが大切だと思うのです。
(令和2年7月10日)
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