水野 次郎

水野次郎 – 読み物教材の道徳

道徳的・探究的キャリア教育を考える⑪

水野次郎

『こどもちゃれんじ』初代編集長

キャリアコンサルタント

モラロジー研究所特任教授

 

●書いた人間が解けない国語の問題をどう考えるか

 前回、慶應義塾大学の中島隆信教授が小学校5年生の時に受けた、道徳の授業についてご紹介しました。教師が淡々と『流れる星は生きている』(藤原てい、1947)を朗読したことが忘れられないという回想です。実はこの文章を読んだ方から、次のような声をいただきました。「私は小学校のときに、女性教師に『ああ無情』『ビルマの竪琴』を読んでもらいました。そして水野先生がお書きになっているのと同じように、何の感想も入れず、丁寧に読まれていました。私のように思い出が蘇る同世代の人が多数いそうです」と。不運にも私はこうした授業を体験していないのですが、お2人の逸話からすると、およそ半世紀前の教室では見慣れた風景だったのかもしれません。

 子どもたちに本を読んだ教師の思惑としては、「感動の共有」とでも言いましょうか。今でいう道徳の「価値項目」を、読書という間接体験によって感じ取らせる狙いであったと思われます。道徳の専門家会議が指摘したような、読み物教材による「心情理解」という薄っぺらいものでは、決してないでしょう。国語教科とは異なる形で、物語世界の豊かさを味わわせる、極めて良心的な教育手法だったと思わずにいられません。私自身といえば、国語で登場人物の心情を問われることが、非常に苦手でした。とくに選択肢がある設問など、なぜこのいずれかに自分の考えを当てはめさせるのかという、強烈な拒絶反応さえ覚えたものです。

 そのトラウマが最近、蘇った体験がありました。私自身の書いた小説が、2013年の埼玉県・公立高校の入試問題に採択された時です。大問1の25点分が、拙著からの引用で作問されることがありました――『ツバサの自由研究』(2012、出窓社)。試みに解いてみると、苦手な心情理解も含めて正解を言い当てられない難問で、私はなんと半分以下の12点しか取れません。自分の書いた文章題に戸惑う作家の文章を、これまで何度か目にしてきましたが、これはいったい何を意味するのでしょうか。

 

 

●国語力を上げること、物語を楽しむこと

 昨年、ある中学校の道徳授業を参観した時のことです。オー・ヘンリーの名作『最後の一葉』が、その日の研究授業の題材に扱われました。授業担当のベテラン教師は、授業を終えた反省会の場で周りの教師に「私は国語の教師だから、こうした読み物の時には、つい心情理解に向かってしまうのよね」と、苦笑いを浮かべます。もしかしたら、職業病とでもいうような条件反射なのでしょうか。

 国語の試験の一形式としてあるのは、著者が何を訴えたかったのか。そして、短時間で正解を導き出すために、文章の何に注目すればよいのか。その秘訣を掴むことは学力向上の側面であり、評点を上げるためには避けて通れません。私の高校時代の思い出ですが、「問題を見た瞬間に、どう答えてほしいかという、設問者の意図を読み取ることにしている」と、同級生の学力秀才が話していて驚きました。彼がどのように読書を楽しんでいたかは聞きませんでしたが、国語の教科力を上げることと、想像力を自在に膨らませながら物語世界を楽しむ読書は、かなり異質な営みなのかもしれません。実際、私は本を読むことは大好きでしたが、国語の時間はどちらかというと憂鬱でした。

 読書といえば数年前、「21世紀に求める人材」というキャリア教育のセミナーに出席した折に、日本を代表する企業の人事担当役員が、次のように話していたことを思い返します。「御社の求める人材は?」という質問に対して、次のように回答されました。「たくさんの小説を読んできた人が欲しいですね。古典でも、現代の作品でもいい。言い換えれば、人間と社会を理解してほしいということでしょうか。今の若者は、得てして人との摩擦を回避する傾向が強い。したがって体験が不足しているから、人間理解が浅いように感じます。前線で顧客と向き合う時はもちろん、上に立つリーダーになった時に、人の心に対する洞察力がないと困る。学力はそこそこでいいので、まずは読書体験を積んでほしいのです」という話に、深く感銘を受けました。

 こうした時、真っ先に「グローバル社会では~」と続くのが今の風潮ですが、この方は違ったのです。前項で紹介した、作家の天童荒太による「小説を読む上で、登場人物の感情とともに生きる時間があれば、それはもう経験と言えるものだと思います」という言葉通り、豊かな読書体験は人間理解のみならず、道徳の価値項目を身につけていくことにもつながるのでしょう。

 

 

●大村はまの教育活動が、今こそ見直される時

 大正大学人間学部の稲井達也教授は「大村はまは戦後、読書指導に力を入れた実践家の1人」と書いています(『大村はまの読書指導に関する研究』〈2009〉)。稲井教授は大村の読書指導について「今日においても、国語科という枠組みの中での読書指導の教育内容・教育方法や、国語科における読書活動への手掛かりを見出す意義があると考えられる」と書いています。この言葉を援用すれば、国語教育のみならず、道徳科が「考え、議論する」ことを主眼に置いている現在、大村の教育実践が再評価される時代が来ていると言えるかもしれません。

 稲井教授の論文には、大村が鳴門教育大学で語った講演「学力低下の声の高い中で考えていること」(2002)の中から、次のような一文が抜粋されています。

「私は戦前戦後を通じて教師でした。そして話し合いのできない自分自身を、これほど困ったことはありません。いろいろと手を尽くしてもできないこと、不備なことはありましたけれども、話し合いくらい、戦後の国語教師として骨の折れたことはありません。その頃のはやり言葉は『民主国家の建設』。これは誰でも毎日言っているような言葉でした。その建設に欠けているものは、話し合いの力ではなかったでしょうか。おしゃべりはできるかもしれませんけれども、しっかりとした建設的・創造的な話し合いはできない。そういう人たちが集まって『民主国家の建設』もないもんじゃないでしょうか」

 大村が読書指導に力を入れていた背景に、ここで示された問題意識。つまり話し合いの力をつけさせるためのねらいが潜んでいたことは想像されます。大村の読書指導は➀昭和20年代(1945―)~昭和30年代(1955―)②昭和39年(1964)~昭和45年(1970)③昭和47年(1972)~昭和54年(1979)の3期に分類できるそうですが(石津正賢の研究より)、すでに1949年に勤務していた目黒八中の国語授業「単元『読書』」の中で、生徒たちの手による『読書新聞』を作らせていたと言います。この新聞の創刊号「論説『読書について』」では「およそ、読書のない生活ほど、潤いがなく、無意味なものはないだろう」と、大村自身が寄稿していました。もちろんデジタル機器がない時代のこと。さしずめ現代の中学生に置き換えると「およそ、スマホのない生活ほど、退屈で刺激が少ないものはないだろう」となるでしょうか。

 稲井教授は「大村は読書をこれからの社会を生きぬくための一つの技能と考え、『良い読書人』を育てることをその狙いにあげた」と述べています。先の企業役員の言葉は、大村の意図の正しさを言い当てているとも読み取れ、前時代へのはかない追憶として安易に切り捨てられることはできません。『良い読書人』は、今の時代も求められているわけですから。教室にタブレットが入り込み、読み物が「心情理解」として扱われる中、一方で「言葉を獲得し、磨いていく」ための読書体験を、個々の教師が支えていくような教育環境が作られるとよいと考えます。もちろんそれは保護者の応援もあればこそで、生活の中での読書。あるいは豊かな言語空間づくりということを、大人が意識していく必要があるのでしょう。

 次回はその手段としての読書を考える上で、この時の研究授業について、具体的にお伝えいたします。

 

※大村の読書生活指導の実践報告と読書論は、『大村はま 国語教室第7巻 読書生活指導の実際(一)』と『大村はま 国語教室第8巻読書生活指導の実際(二)』にまとめられている(稲井教授の論文より)。

 

(令和2年6月30日)

 

 

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