水野 次郎

水野次郎 – 読書による疑似体験と道徳教育

道徳的・探究的キャリア教育を考える⑩

水野次郎

『こどもちゃれんじ』初代編集長

キャリアコンサルタント

モラロジー研究所特任教授

 

●「流れる星は生きている」を延々と読み続けた道徳の授業

 昨年の夏、慶應義塾大学・中島隆信教授の研究室を訪ねた時の話です。目的は本年1月に、私どもが道徳教育のシンポジウムを企画し、中島教授にパネリストを依頼したいと考えたからでした。『大相撲の経済学』(2003)、『お寺の経済学』(2005)、『障害者の経済学』(2006)、『オバサンの経済学』(2007)、『刑務所の経済学』(2011)、『高校野球の経済学』(2016)など経済学シリーズの著書で知られる中島教授。意外性のあるテーマを、経済学の視点から鋭く切り込んでいく独自の分析手法は斬新で、時に目を開かせられます。中島教授はNHK・Eテレの若者向け経済番組『オイコノミア』(2012~2018)で、芥川賞作家・又吉直樹氏の問いに答える講師として、身近な経済問題を解説して親しまれていました。

 中島教授にパネリストを依頼した理由は、私が高校勤務時代に『高校野球の経済学』で取材を受けたことがあり、旧知であったこと。加えて道徳を経済の切り口から読み解いた時に、さぞや刺激的な知見が生まれるのではないか、という好奇心からでした。中島教授には『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる教育』(2007)なる著書もあり、本書の帯には「さよなら! モラル教育」という文字が踊っています。道徳の新しい地平を切り開く意味でも、中島教授の問題提起は教育関係者のみならず、明日の社会を考えるための視野が広がることを確信したのです。

 シンポジウムについては後述するとして、最初に研究室で道徳の話を切り出した時に、中島教授は開口一番「道徳…ですか。私が覚えている道徳の授業は、小学校5年生の頃に、先生が毎回、藤原ていの『流れる星は生きている』(1949)を朗読されていたことです。何のコメントもなく、ただただ毎時間、朗読をする。子どもたちは私語も交わさず、じっと聞いている、その光景は忘れられませんね」と、遠いものを見る目で懐かしまれました。小学生に対して、道徳の時間で本書を選んだ先生の感性。話に聴き入る子どもたちの態度。「どちらも素敵!」と、私は率直に感じた次第です。本書は、終戦後に満州から引き揚げる道のりで、繰り返し生命の危機に遭いながらも、2人の子どもを守り抜こうとした母親の壮絶な物語。子どもたちが耳を立てて朗読を聴き、思い思いの情景を浮かべながら受けた衝撃と「家族愛」は、いかばかりだったでしょうか。自ら描いた残像を焼き付けた子どもには、新しい家族観を形成する芽生えがあったに違いありません。中島教授が今もって記憶していることからも、そのように思います。ちなみに山岳小説で一時代を築いた新田次郎との間に授けられた、藤原ていの次男・藤原正彦氏は『名著講義』(2009)で「偉い人とお母さんはセット」として、福沢諭吉や野口英世の母親に言及し、「日本女性は世界一」との賛辞を贈っています。本書も疑いのない名著ですが、藤原氏はきっと、ご自身のお母さまの姿も思い浮かべていたことでしょう。

 もちろん今の時代、こうした授業を展開することは容易ではありません。2015年に設置された「道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議」において、読み物教材が「登場人物の心情理解のみの指導」として位置づけられた今では、ないものねだりとも言えましょう。しかしながら道徳の内容項目の一つである「家族愛」の問題を、現実感をもって受け止めさせるのはとても難しく(しかも個人差が極めて大きい)、実際に教科書では限界があり、優れた作品の読書体験から得られる感動とは比較になりません。それゆえ『流れる星は生きている』に光を当てた教師の慧眼と実行力には、敬意を表すばかりです。この逸話は、今後の道徳教育を考えるうえでの、ヒントも潜んでいるのではないでしょうか。

 

 

●疑似体験として読書の可能性

『家族狩り』(1995)、『永遠の仔』(1999)など、現代の家族が抱える葛藤を描き続けている天童荒太は『まだ遠い光・家族狩り5』のあとがきで次のように書いています。「小説を読む上で、登場人物の感情とともに生きる時間があれば、それはもう経験と言えるものだと思います~(中略)私自身がほかの方の長編の物語を読むとき、登場人物たちと一緒に旅をしている感覚を覚えるものですから、このように書くのですが、今回の長い旅の終わりにどんな風景が広がったでしょう。本から顔を上げ、人や社会や世界を見たとき、目に入ってくる風景が、旅に出る前と変わっていたなら、送り手として幸いに感じます」。

 学習指導要領には、小学校と中学校の道徳教育において、それぞれ以下の22項目の内容項目が設定されています。小中では微妙に異なる各項目について、年間通して身につけさせていくわけですが、短時間では消化不良になりがちな項目があることは否めません。先に述べた「家族愛」は、代表的な一つだと思います。すべてとは申しませんが、年齢やクラスの状況を見ながら、これはと思う内容項目の学びとして、読書を授業に取り入れてもいいのではないでしょうか。中島教授の担任の話を伺って、そのように感じました。また必ずしも全体に対してだけでなく、個別の児童生徒に差し出す材料としての、魂を揺さぶる読書体験の薦めもありえます。実は私自身も高校勤務時代、問題行動を起こした生徒を特別指導する場面では、よく本を渡していました。下手な説教よりも、効果があると考えていたのです。

 

 

 

●道徳シンポジウムの成果

 さて2020年1月26日、麗澤大学生涯教育センターにて開催したシンポジウムは「子どもの道徳、一緒に考えてみませんか?」という主題を設定しました。中島教授による基調講演「令和の時代の賢人教育~経済学者はこう考える」を受け、麗澤大学経済学部の下田健人教授、江島顕一准教授が加わってのパネルディスカッションへと流れるプログラム。学生から退職した教員など、男女年齢とも幅広い層が50名ほど参加され、私はコーディネーターを務めました。中島教授は既存の考え方に捉われず、柔軟で合理的な考えを道徳に取り入れては、と問題提起されます。参加者の意欲と熱気は壇上でも感じられ、公開質問会も切れ目なく質問が続き、感激が綴られたアンケートがたくさん集まりました。

 一部をご紹介すると、「智徳両面からのアプローチの必要性を考えさせられました」とは、基調講演の冒頭で解説された福沢諭吉『文明論の概略』に対する感想。「家族愛、いじめ、優生思想、給食持ち帰り問題の本質、最後は暴力団の役割まで、とてもわかりやすく楽しく拝聴させて頂きました」「既存の道徳においても『べき論』ではなく『知』を活用し、論理的に考えていくことが大切と思いました」とは中島先生の真骨頂が披露されたことを示す感想で「先生のご講義をもっと拝聴したいと思いました」とは多くの方が書かれていた想いです。「考えの道筋のつけ方、大事だと思います。今の子どもたちに育てたい力だと思います。道徳教育の充実、大切だけど難しい。でも、今日のような研修の場をつくり、学び合いたい。そして、一歩、行動(道徳的実践)をしていきたいです」との言葉に、当シンポジウムを開催した意義を強く感じた次第です。子どもに考え、議論をさせる前に、大人が建設的な話し合いをする術を身につけなければならないということでしょう。

 大学生の参加者からも、次のような意見が寄せられました。「自分が目指す教師像をどう定めていけばよいのか、という方向性を少し固めることができました。子どもたちに議論をさせるうえで、否定はしないが批判はさせることが大切だと再認識しました」。パネルディスカッションで討論されたのですが、否定はではなく批判という次元に、子どもたちをどう導いていくのか。簡単な処方箋はないと思いますが、年齢に応じた「批判的思考力の育て方」は、「考え、議論する道徳」においては見過ごせない問題設定です。議論に実効性を持たせるために、批判は不可欠であり、その基盤となるのは言葉の力に他なりません。その意味で昭和初期から半世紀にわたり、言葉の教育(国語教育)に力を尽くした大村はまは、道徳授業の先駆けだったとも言えるでしょう。私は教員志望者に対して、必ずと言っていいほど大村はまの著書を薦めていましたが、次回は大村はまの実践について触れてまいります。

 

※中島教授に本稿の掲載許諾を得たく連絡したところ、『流れる星は生きている』について、ご自身が書かれた書評をお知らせくださいました(産経新聞「この本と出会った」2007年5月28日)。

 

――「死んじゃ駄目だぞ、ここまで来て死んじゃ駄目だぞ!」――
 教室はシーンと静まりかえり、全員が先生の口から発せられる次の言葉を待っていた。これほど張り詰めた授業の雰囲気を、私は前にも後にも、経験したことはない。(中略)愛と憎しみ、同情と非難、対峙する感情が入り乱れ、ときに激しくぶつかり合う。人間の内面が剥き出しになり、読者はその都度自分のちっぽけな道徳心を試される。
 朗読してくれた先生は一切の解説を加えなかった。今ではその理由がよくわかる。道徳教育というのは子供に社会のルールを押し付け、守らせることではない。子供が自分の心を鍛える手助けをすることだ。(中略)その後、私は経済学者への道を歩んだが、『流れる星』の記憶は、すっきりとした形で世の中を説明しようと試みる私に対し、いつも厳しい批判を投げかける。

 

 

(令和2年6月19日)

 

 

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