菅野倖信 – 友好関係にあった“チベット”という国
菅野倖信(すがの よしのぶ)
㈱オリエンタルプロセス代表
モラロジー研究所特任教授

チベット仏教の聖地、ラサのポタラ宮
大多数の日本人は、チベットと呼ばれる地域は、中国のチベット自治区のことをさすのだと思っているのではないでしょうか……?
1950年に中国人民解放軍がチベットに侵攻するまでは、チベットは現在のチベット自治区があるウツアン州、中国の青海省と甘粛省の一部を含むアムド州それに四川省、雲南省の一部とチベット自治区の一部を含むカム州の三つを含む広大な地域がチベットと呼ばれていたのです。
現在のチベット自治区に行くには飛行機を乗り継がなければなりません。確かに遠い国ではありますが、たからと言って日本人にチベット問題に関する知識が無いのはやむをえないというのは間違いです。
というのは、かつて日本とチベットは硬い絆で結ばれていたからです。
仏教研究家で探検家でもある川口 江会(かわぐち えかい)が、1901年(明治34年)に日本人として初めてチベットに入国しているのです。飛行機も無い時代、彼の体験記であるチベット旅行記が衝撃的であったものは言うまでもありません。
また、ダライ・ラマ十三世(在位 1879~1933年)のもとチベット軍の指導に当たり、軍事顧問に任ぜられた矢島 安二郎(やじま やすじろう)。
そして、チベット国旗のデザインをしたと言われる青木 文教(あおき ぶんきょう)や国際情勢を重臣に教える役を担った多田 投函(ただ とうかん)の二人は、十三世の信頼が厚い僧侶でした。彼らの働きでチベットは困窮を極める戦時中の日本の助けにと羊毛を輸出しました。また、中国侵攻を進める日本軍に対抗する為に英米の連合軍は、チベット国内の基地使用を要請しましたが、チベット政府は拒否したのです。
日本との友好関係を重視し中立を通したのです。
もっともチベットは仏教国で戦いを好みません。日本との友好関係を別としても自国が戦地になることを嫌ったにちがいありません。連合国にとってみればチベットの行為は裏切りとみられたのです。戦後チベットを占領した中国は、国連の常任理事国となったにもかかわらず、国際的にチベット侵攻が黙殺された理由はそこにもあるのです。
現在では、青海省や甘粛省、及び四川省や雲南省にのみこまれたチベットの中国化は進み事実上中国の領土と見なされています。
その証拠にチベット原産のパンダが、中国固有の動物として世界的な平和のシンボルとされ中国のパンダ外交に用いられているのは、皮肉な例と言えるでしょう。
だがラサを首都とするチベット自治区は、未だに中国にとっても占領地域、あるいは外地としての認識があるようです。
そのため自治区では、ありとあらゆることが規制され、事実上戒厳令下におかれています。
外国人観光客は、自治区内の移動は、バスや鉄道あるいはガイド同伴で手配された車を使用することになっており、個人の自由旅行は禁止され、入域許可証が無ければ一歩たりともは入ることはできないのです。
※菅野倖信メールマガジンより
(令和2年6月1日)
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