言論人コーナー

髙橋史朗 – 再び小林秀雄から日本の歴史と伝統について考える

髙橋史朗

モラロジー研究所教授

麗澤大学大学院特任教授

 

 

●頭で分かる“understand”と心で実感する“realize”―「胸中の温気」

 前回の拙稿で紹介した小林秀雄は、「水の意味を知ることと、水を分析してH₂Oだと知ることとは全然違う」「H₂Oという水の客観的な性質は、私にとっては、間接的な知識を出ない。私が直に知って、少しも疑わない水は、何時か飲んだおいしい一杯の水であり、何処かで泳いだ美しい川の水である」と指摘しています。
 水が水素と酸素という成分で構成されていることが“understand”、すなわち、頭で分かっても、「おいしい」「美しい」と心で実感(“realize”)できなければ、水が解ったことにはなりません。歴史教育も道徳教育も愛国心も「生命に対する畏敬の念」も実感できなければ、「氷のつらら」のような冷たい建前のスローガンにすぎません。歴史や道徳を貫いている「胸中の温気」を育むことが大切です。子供の「胸中の温気」を育てるには、親や教師の中に歴史や道徳についての「胸中の温気」がなければ、育てようがありません。
 小林秀雄は「子を見ること親に如かず」として、「母親は、子どもをチラッと見たら、何を考えているか、わかるのです。そういう直観は、交わりから来ている。交わりが人間の直観力を養うのです」と述べ、さらに、次のように指摘しています。
「歴史は詮索するものではない。まず共感しなければいけないものだ。共感する時には、<あはれ>を感じるでしょう。歴史は、今はもう目の前にないものだから、諸君がイマジネーションによって呼び起こさなくてはならない。君のイマジネーションが働けば、今ここにない歴史がちゃんと見えてくる」「諸君の中に全歴史がある。諸君は自分の心の中に、諸君のイマジネーションによって日本の歴史をいきいきと呼び起こすことができる。心眼で見るんだよ。ベルグソンは、人間は眼があるから見えるのではない。眼があるにもかかわらず見えているのだといっているよ。僕の肉眼は、僕の心眼の邪魔をしているんだ。諸君の感受性は、傲慢な心さえなければ、どんどん育つのです」

 

 

●鏡としての歴史―「信ずること」と「考えること」

 昔は、『増鏡』や『今鏡』のように、歴史のことを鏡と言いましたが、小林は「一番忘れられているのは、この鏡としての歴史」で、「歴史の中に君の顔を見ることができたら、歴史は君のためになるじゃないか」として、神武天皇や古事記は嘘だという考古学的歴史観を批判し、次のように述べています。
歴史とは、みんなが信じたものです。昔の人が信じたとおりに信じることができなければ、昔の人が経験したとおりに経験することができなければ、歴史なんか読まない方がいい。これが本居宣長の説です。宣長さんは、『古事記』の神話をすべて、あのとおりだと信じた。あれが神話時代の歴史だったのです。それが信じられなかったら、神話なんか読む必要がない」
 一発不合格になった自由社の歴史教科書に対する、「神話を史実と誤解するおそれがある」という検定意見は、小林が批判する「考古学的歴史観」の産物といえるでしょう。では、「昔の人が信じた」信仰経験とは一体どのようなものだったのでしょうか。小林は「日本人」という民族の統一感があったとして、「きわめて健全な神と人間の交渉の仕方」を意味する「惟神(かむながら)」という言葉に注目しています。
 小林によれば、「宣長さんは、『古事記』に現れた神話をそのまま忠実に読んでみて、古人がどういうふうな神様の信じ方をしたか、だんだんと明瞭にしていきました」。古人の生きた信仰、すなわち、神人一体となった宗教的な体験を「惟神」と捉えました。「考えること」は「交わること」だと説く小林が、「信ずること」と「考えること」の関係を重視したのは、「きわめて健全な神と人間の交渉」という宗教的経験に裏打ちされた信仰、すなわち、「信ずること」と「考えること」を一体のものとして捉えたからではないでしょうか。

 

 

●歴史伝承の秘儀―「伝統の中に入らなければ、本当の自分を知ることはできない」

「本居宣長は神を信じていたのか」という学生の質問に対して、小林は次のように答えています。
「日本人は日本人の伝統というものの中に入って物を考え、行いをしないと、本当のことはできやしない、と宣長さんは考えた。伝統の中に入らなければ、本当の自分を知ることはできない、と考えたのだ。そして伝統の中に深く入っていくことが、そのまま普遍に向かって開くことだと承知していた」
 普遍的、人類的な観念などをいきなり掴むことはできません。「本当の意味で君流にやっていきさえすれば、それは必ず普遍的なものに対して道を開いていくことになる」ことを小林は強調しました。
 最後に、「全歴史は己の掌中にある」と説く小林秀雄は、「神皇正統記」が一番立派な歴史だとして、「歴史と文学」と題する一文を、次のように締めくくっています。
「天秤の詩人の直覚力を持たぬ人は、常に努力して己の鏡を磨かなければ、本当の姿は決して見えて来ない、そういうものであります。だからこそ、歴史は古典であり、鏡なのである。…親房は、書中、心の鏡を磨く必要を繰り返し言っております。悟性(論理的思考力)を磨く事ではない、心性を磨く事です。そして、『心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り』と言っています。その動かぬ処にこそ、歴史の伝承というものの秘儀があるのであって……日本の歴史が、自分の鏡とならぬ様な日本人に、どうして新しい創造があり得ましょうか

 

*参考文献一小林秀雄『学生との対話』(新潮文庫)、同『考えるヒント1~3』(文春文庫)

(令和2年6月1日)

 

 

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