髙橋史朗 13 – 小林秀雄から歴史と「考え、議論する道徳」について「考える」
髙橋史朗
モラロジー研究所教授
麗澤大学大学院特任教授
●小林秀雄の「学生との対話」―答えを焦らず「切実に問え!」
昨年夏に初めてモラロジー研究所の大学生の大会で講演し、「学生との対話」を楽しませていただいた。「学生との対話」で忘れられない衝撃的な体験は、昭和45年と49年に開催された国民文化研究会の全国学生青年合宿教室での作家の小林秀雄氏の講演後の質疑応答のやり取りでした。
この2回の講演と質疑応答は『小林秀雄 学生との対話』(新潮社)に収められ、CDとしても販売されています。このCDには、私の感想文も収められており、一生忘れられない思い出となりました。衝撃を受けたのは、学生の質問に対して、「君は自分の質問の意味が分かっているのか!」「そんな質問には答えない!」などと厳しく突き放された小林秀雄氏の威厳に満ちた態度でした。質問に答えないで、逆に詰問する講師の存在感に圧倒されました。
問うこと自体の意味を学生自身に厳しく問い直し、「切実な問い」を求めました。「本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのです。この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる」と語りかけ、答えばかり出そうと焦る姿勢をたしなめ、「私は私が分からない」という質問に対しては、「歴史を勉強しなさい」と一喝し、次のように語りかけました。
<君が自分を知りたい時も、直接には君自身を知ることはできないのです。直接自分を知るなんて、そんなのは空想ではないかな。自己反省などと言うが、そのとき君自身はどこにいるのですか。君自身を反省するとは、君の子供の時のことを考えることだ。子供の自分は他人ですよ。歴史的事実ですよ。…では織田信長を振り返ってみたまえ。…「ああ、信長ってやつは、こんなやつか」と思ったのなら、「俺は信長ってやつに興味を抱いているな」と分かる。あるいは、嫌なやつだなと思うかもしれない。すると、「信長を嫌うものが自分の中にあるな」と分かります。それこそ君、自分を知ることではないか。>
自分の人生を溌剌と独創的に生きていくために必要なことは、答えを手にすることではない。問いを発明することだ。自分自身で人生に上手に質問することだ。上手な質問か下手な質問かは、その質問が自分にとって切実か否かだと説き、右か左か、賛成か反対かなどという世論調査のような質問を最も嫌いました。
●「考えること」は「他者とつながること」
答えを求めるのではなく、自分で考えることが大切であり、何かを知りたければ、よく「考える」ことだと言い、本居宣長の説を引用されました。
<「考える」ことを、昔は「かむかふ」と言った。宣長さんによれば、最初の「か」に意味はなく、ただ「むかふ」ということだ、と。この「む」というのは「身」であり、「かふ」とは「交ふ」です。つまり、考えるとは、「自分が身をもって相手と交わる」ことであり、人間を考えるときには、その人の身になってみるだけの想像力が要る。>
この観点から「考え、議論する道徳」を捉え直すと、「自分が身をもって相手と交わる」中で対話する道徳であり、「主体的・対話的で深い学び」につながります。また、「その人の身になってみるだけの想像力」は、自他を切り離して頭で想像する「認知的共感」にとどまらず、自他一体となって心で解る「感情的共感」もともに育む「深い学び」といえます。
歴史と自分との関係を重視した小林秀雄は、「歴史と文学」と題する一文において、次のように述べています。
<学生諸君が、歴史というものに対して、まことに冷たい心を持っている…明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決して出来ないていのものだ、これを無味乾燥なものと教えて来たからには、そこによっぽど余計な工夫が凝らされて来たと見る可きではないか。歴史は人間の興味ある性格や尊敬すべき生活の事実談に満ち満ちている。そういうものを歴史教育から締出して了って、何故、相も変らず、年代とか事件の因果とかを中心に歴史を教えているか。それは、ともかくも歴史は通史の体裁をきちんと整えて教えねばならぬという陳腐な偏見が根本にあるからであろう…残された道は、一つだと思います。それは、建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新という様な歴史の急所に、はっきり重点を定めて、其処を出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微に渉って教える、思い切ってそういう事をやるがよい。…人生の機微に触れて感動しようと待ち構えている学生の若々しい心を出来るだけ尊重しようと努める事だ。…歴史に関する情操が陶冶されぬところに、国体観念というものを吹き込み様がありますまい。国体観念というものは、かくかくのものと聞いて、成る程そういうものと合点する様な観念ではない。僕等の自国の歴史への愛情の裡にだけ生きている観念です。>
●道徳教育学樹立を目指し、自由闊達な議論を!
道徳教育において重要な「生命に対する畏敬の念」についても全く同様ではないでしょうか。宗教的情操の陶冶なくして、「生命に対する畏敬の念」を吹き込みようがありません。
新学習指導要領で強調されている「考え、議論する道徳」について、この視点から根本的に問い直す必要があるのではないでしょうか。
前回の拙稿で論じた「道徳教育の目標」や指導方法などについて論議した、文科省の中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会の道徳教育専門部会の会議では、次のような意見が出されていますが、「心情」や「情意」の理解に根本的な認識不足があるといわざるを得ません。学習指導要領の解説も含めて、道徳的心情・道徳的判断力・道徳的実践意欲と態度に関する理論的整理が必要でしょう。
<道徳の授業で育成すべき資質・能力を認知的側面、情意的側面、行動的側面に分けた時、これまでの道徳教育では情意的側面を重視して登場人物の心情を理解して道徳的価値の自覚を深めることが多かったが、今後は、認知的側面や行動的側面も重視する必要がある。>
これまでの道徳教育は「情意的側面を重視」して、「登場人物の心情理解」をしようとしたのではなく、前回の拙稿で論じてきた、自他を切り離して他者の感情を頭で想像する「認知的共感」という「認知的側面」を重視して「登場人物の心情理解」をしようとしたところに根本的な誤りがあったのではないでしょうか。いじめ防止に向けた道徳の質的転換がいじめ問題の解決につながらなかったのも、拙稿の連載で繰り返し指摘してきた、この理論的欠陥に気付かず、道徳科の目標・内容・方法・評価の理論的整理が不十分であるからといえるでしょう。道徳教育学の構築に向けて、多様な科学的知見に基づく自由闊達な議論を積み重ねていくことが時代の要請といえます。
(令和2年5月26日)
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