髙橋史朗 11 – 教育の目的と目標の構造を問い直せ! ―「分析」思考から情動的「直観」は育たない―
髙橋史朗
モラロジー研究所教授
麗澤大学大学院特任教授
●小林秀雄「美を求める心」
私が「感性」について考えるようになったきっかけは、小林秀雄の次のような「美を求める心」と題する一文を読んだことにありました。
<例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るということは難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了〔しま〕うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗〔かつ〕て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。>
道徳教育では「生命に対する畏敬の念」を育むことが大切ですが、これは「考え議論する道徳」や「アクティブ・ラーニング」の導入によって、子供の心の中に育つものではありません。論理的思考によって「菫の花」だと「頭で解れ」ば、心の眼を閉じてしまって瑞々しい感性は働かなくなり、「もう花の形も色も見るのを止める」のです。
これまでの道徳教育は、「読み物教材の登場人物の心情理解」に偏り、分かりきったことを言わせたり書かせたりする指導に終始してきたために、現実のいじめ問題の解決には全くつながりませんでした。
友情の大切さを述べて教師を感動させる文章を書いた子供が、実はクラスのいじめっ子の中心人物だったという現実が物語っているように、教師は学習者の立派な文章や発言に目を奪われて、学習者の感性や認識の深さや本音を頭ではなく心で実感する眼を失っているのではないでしょうか?
●ベルクソンと禅の公案「奚仲造車」
小林秀雄はベルクソン(フランスの哲学者)の思索の進行について、次のように述べています。
<直観から分析への道は開けているが、分析から直観へ達する方法は一つもない。これは、ベルクソンの思想の根本にある考えである。…直観から分析へと導かれた分析であるからこそ、分析は直観を豊かに鋭くする様に働きもするのだが、逆の方向はないのである。>
直観は、植物の種子に内在している目的によって、発芽を実現し繁茂をもたらす種子から萌え上がる生命のようなものです。この種子を中核とした直観からは、繁茂する枝葉を分析する道は開けていますが、根から切り離した枝葉の分析からは、種子の生命である直観に直結した成長は望めません。
これが「分析から直観へ達する方法は一つもない」ということであり、小林秀雄は「私は、私の知らない詩を、言葉を集めて構成する事は出来ない」と述べています。禅の公案集である『無門関』第8則に「奚仲造車〔けいちゅうぞうしゃ〕」の公案があります。中国の黄帝の時代に奚仲という車造りの名人がいて車を百台も造ったのですが、その車輪も車軸も取り外して何かを探していました。一体何を探していたのでしょうか? という公案です。
奚仲は車の部品を分解して、車は一体どこにあるのかを探していたのです。人間にたとえれば、「自分の手や足」等はあくまで人間の肉体の「部分」にすぎません。部分に分解できない「自分自身」という「全体」は一体どこに存在するのか、という問いに直結します。
車は部品と部品の間の関係と働きによって成立します。過去の文化遺産としての車を分解し、部品を並べて車の構造を調べて走る原理を理解しても、新しい機能を持った車を造り出すことはできません。
この視点から教育の「目的」と「目標」の関係を捉え直す必要があります。教育目標は、教育基本法の「教育の目的」から、学校種別目標―教科目標―学年の目標―単元の目標―本時の目標と細分化される有機的な目標構造を持っています。各目標と子供の反応という2つの鏡に照らして、指導内容・方法・評価にわたって「目的」が一貫した羅針盤となっている必要があります。
文化としての歴史性という根に立脚した「実生」の縦軸の教育目的を見失い、教科等を横断する横軸の視点の導入による各教科の目標の構造転換によって、考え議論する「分析」思考が優先され、「直観」に裏付けられた「直感」すなわち「情動的な直観」(ジョナサン・ハイトの言う「象」)に働きかけることをしないという「深刻なあやまり」に陥っているのです。拙稿で論じてきた国語及び歴史教科書の問題の本質はこの点にあるのです。
●教育の目的は「内在的価値感」の育成
教育の「目的」は、真善美の価値を感じ追究する「内在的価値感・認識」を深めることにあります。エリック・バーン(カナダ出身の精神科医)が始めた「交流分析」を日本で最初に心身医学的療法に活用した池見酉次郎氏は、西田幾多郎哲学から「東洋的自我」を目指して禅の英知を取り入れて、交流分析を再構成し、国際的に高い評価を得ました。
池見氏は、内的言語活動を成立させている人類の種的先天性の存在に目を向け、言語が記号化される以前の「言葉」の主体である「内在的価値感」の次元を、人間の独自性を成立させている根源として認めたのです。
こうした「人間存在の根源的な在り方に立脚した新たな」国語教育学を西尾実氏が構想したように、「内在的価値感」を育む新たな道徳教育学・家庭教育学を構想することが時代の要請といえます。エリック・バーンは乳幼児期の親的環境の影響によって人生脚本が作られると指摘しています。
大脳生理学の権威・時実利彦氏は、競争意識や征服欲が「殺しの心」にまで爆発するとして、教育において「うまく生きる」ために前頭連合野の働きを活性化するほど「殺しの血潮」がたぎると指摘しています。教育現場には「よく生きる」ための教育を軽視して、「うまく生きる」方法を重視する傾向がありますが、「内在的価値感」を深めることによって「殺しの心を鎮める」学習活動こそが、今後の重要課題といえます。
そのためには、子供の内在的価値感に継続した感性を育み、疑問点を解明する意欲を働かせて、「是非善悪で判断してきた問題を、創造活動の要因として志向する認識」の育成につなぐ観点が必要になります。
「アクティブ・ラーニング」という画一的方法論を「導入」して、子供の活動を活発にすることではなく、子供が「体験から感じ取ったことを表現」(前回の拙稿参照)させることによって、原因と結果の間に存在する創造の「理(ことわり)」の働きを究明させていく活動に導いていくことこそが求められているのです。こうした創造的探求の態度が、主体的自己実現の重要な柱であり、「生きる力の源泉」なのです。
小学校における道徳教育の授業をビデオに収め、教師と子供とのやり取りを交流分析の手法で総括し、道徳教育の今後の課題を明らかにした修士論文の指導をしたことがありますが、エリック・バーンが「専門医は絶えず自身の直観を客観的な観察と対比して吟味する必要がある」と強調しているように、子供の心の本音である「内言語」に注目し、教育者自身の直観を客観的な観察と対比させながら、「主体的対話的で深い学び」に絶えず鍛え上げ、「自覚化」していくことが道徳教育の今後の課題といえます。
(令和2年5月11日)
※道徳サロンでは、ご投稿を募集中!