高橋 史朗

髙橋史朗 10 – 「感知の基盤」である「言語活動の充実」という原点に立ち返るべき

髙橋史朗

モラロジー研究所教授

麗澤大学大学院特任教授

 

 

●読者の質問に対する私の見解

 前回の拙稿について2人の読者から2つの質問が寄せられましたので、お答えしたいと思います。2つの質問は関連したものであり、質問のポイントは、拙稿において、「我が国の歴史に対する愛情」「国民としての自覚を育てる」という歴史的分野の本来の目標が「アクティブ・ラーニング」や「多面的・多角的考察」の名の下に、軽視又は矮小化されるという結果を招いたという指摘と、その指摘とハングル表示の韓国語や中国語の表が加わったこととの関係について説明してほしい、というものでした。
 多分同じような疑問を抱いた読者も少なからずおられたのではないでしょうか?5月5日付産経新聞「論点」欄にも私のインタビュー記事が掲載されていますが、私の真意がどこまで読者に伝わっているかはわかりません。今回の教科書検定問題の本質は教育課程改革の根底にある問題を深く理解しなければ、決して見えてこないものだからです。
 そこで、今回の教科書検定問題の背景にある教育課程改革について、できるだけわかりやすく説明したいと思います。

 

従来の学習指導要領の改訂は教科等別に進められる教育内容に関する議論を中心に行われてきましたが、この流れを大きく変えたのが平成20年の学習指導要領改訂における「言語活動の充実」でした。当時の中央教育審議会は、論理と思考等の知的活動、コミュニケーションや感性・情動の基盤である言語活動を、子供たちの思考力・判断力・表現力等を育成するための有効な手段と位置付け、その体系化・構造化を試み、以下の学習活動を例示しました。
 ①体験から感じ取ったことを表現する
 ②事実を正確に理解し伝達する
 ③概念・法則・意図等を解釈し、説明したり活用したりする
 ④情報を分析・評価し、論述する
 ⑤課題について、構想を立て実践し、評価・改善する
 ⑥互いの考えを伝え合い、自らの考えや集団の考えを発展させる

 

●「感知の基盤」である「言語活動の充実」の3つの契機

 これらの言語活動を教科等を横断する横軸の視点として明確化し、各教科等の教育内容を構造的に改善する提言を行ったのです。このような「言語活動の充実」が提起された背景には、3つの重要な契機がありました。

 

 

 その第1は、OECD(経済協力開発機構)の「キー・コンピテンシー」(図参照)に代表される学力論の国際的動向で、学力のグローバル・スタンダードは、知識や技能を活用して「何ができるようになるか」という「汎用的な資質・能力の体系」へと変化したことです。
 第2は、従来「見えない学力」と言われてきた思考力・判断力・表現力等がPISA(OECDによる国際的な生徒の学習到達度調査)や全国学力調査のB問題等によって可視化され、「汎用的な資質・能力」の具体的イメージが学校関係者に共有されてきたことです。
 第3は、学校教育法の改正によって、学力が①基礎的な知識及び技能の習得②知識及び技能を活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力等の能力③主体的に取り組む態度、と規定され、従来の経験主義と系統主義、「ゆとり」か「詰め込み」かという二
 元論的な対立を超える「学力の質的転換」を目指す法的根拠が明示されたことです。
 しかし、私見によれば、「感知の基盤」である「言語活動の充実」の学習活動の第一に掲げられた「体験から感じ取ったことを表現する」という学習活動が軽視されてきたという根本問題があるのではないでしょうか。「感じ取る」という「情動的共感」を育む教育課程が軽視され、国語・歴史教科書にもその影響が及んでいるといえるでしょう。

 

 

●二者択一的な不毛な学力論争からの脱却

 前回の拙稿で紹介した中教審の教育課程企画部会の論点整理は、このような背景の下に行われたものなのです。それ故に、「基礎基本」的な知識か、「応用」的な思考力・判断力・表現力かという二者択一的な不毛な学力論争からの脱却こそが求められているのです。
 かつて「ゆとり教育」の名の下に、基礎基本と応用の関係は「根や幹と枝」の関係であるにもかかわらず、両者の関係を二者択一的に捉え、例えば国語教科書から「読む」「書く」等の「基本」的内容が削減され、「伝える力」等の「応用」力を重視したために、学力が低下した失敗を再び繰り返してはいけないのです。
 この失敗を繰り返さないために、今日気を付けねばならないのが、「アクティブ・ラーニング」と「多面的多角的考察」についての理解といえます。前回の拙稿で説明したように、「アクティブ・ラーニング」を議論やディベート等のワンパターンな画一的方法論と誤解して「アクティブ・ラーニングを導入する」と捉える傾向が広がっていますが、「主体的な学び手(アクティブ・ラーナー)を育てる」という原点に立ち返る必要があります。
 また、「多面的多角的考察」については、多様性に「通底する価値」を探るという基本的視点も見落としてはいけません。自虐的な学び舎の教科書に韓国語の原語が多く書かれている事例に見られるように、「多面的多角的考察」の名の下に、国語教科書のハングル表示の韓国語が加わった点を見落としてはいけません。
 また、「新学習指導要領の実施に伴い、諸資料の読み取りが重視されるようになったことを踏まえた」(文科省の「自由社・不合格理由に対する反論書」に対して文科省が「否」と判断した理由として明記)結果、「我が国の歴史に対する愛情」「国民としての自覚」という歴史的分野の第一義的目標が軽視され、「諸資料から歴史に関する様々な情報を効果的に調べまとめる技能を身に付ける」アクティブ・ラーニングの方法論重視という本末転倒に陥ったといえます。
 実はこの問題の根は極めて深いものがあり、道徳科を含む全教科の目標の理論構造を根本的に見直す必要があります。「考え議論する道徳」の前に、「感じ気付かせる道徳」が必要なように、歴史教育も国語教育も冒頭に述べた「感知の基盤」である「言語活動の充実」という原点に立ち返って、子供たちの心の琴線に触れる「感知合流」の教育を目指す必要があるのではないでしょうか。今後の本連載でこの点について詳述していきたいと思います。

 

(令和2年5月11日)

 

 

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