水野次郎 – 文学者・開高健が遺したもの
道徳的・探究的キャリア教育を考える⑥
水野次郎
『こどもちゃれんじ』初代編集長
キャリアコンサルタント
モラロジー研究所特任教授
●裸の王様
昭和の文豪、開高健が『裸の王様』という作品を遺しています。芥川賞受賞作でもあり、開高の代表作の一つと言えるでしょう。最近、久しぶりに読み返したのは、彼が世に出るきっかけになった作品『パニック』の再読を思いつき、結果的に併せ読みをした形になります。私は高校時代、日本の小説に傾注し始め、開高も夢中になった作家の一人でした。彼がベトナム戦争を取材した『闇三部作』と言われる一作目の『輝ける闇』に深く感銘を受けて以来、この書き手に強く惹かれ、刊行直後から作品集(全12巻)を買い始めたのです。作品集の奥付を見ると1973年とありますので、私が高校2年生になった年のことでしょうか。前記の2作は、同じ第2巻に収められた初期の作品です。
ふと『パニック』を手にした動機は、新型コロナウイルスの問題で世界中がパニックに陥っている中、物語の筋立てを再確認したくなったからです。これまで3度ほど読んだと思いますが、ネズミが大発生する事件の骨格以外、細部の記憶はすっかり抜け落ちていました。改めて社会が危機に直面した時、行政的対処に関わる“ある種”の人間に露見する狡猾さと浅ましさ、傲慢さを開高は見事に風刺していることに刮目させられます。事態の悪化とともに、政治家と手を携え自己保身に走る、官僚の醜さと愚かさを冷徹に描き切っていて、人の本質を抉り出す筆致には「いつの時代も…」と感嘆を覚えずにいられません。久しぶりに浸った開高世界の余韻を味わいつつ、そこで本を閉じてしまうのが惜しくなり、『裸の王様』のページを追っていったのです。本作についても、モチーフさえ忘れかけていたところ、読み進めるうちに驚きを禁じえなくなりました。とういうのも今、こうして幼児雑誌の刊行に携わった時の経験を掘り起こしていますが、小さい子どもの教育に関して、まさに扱っている主題に同期する真理が『裸の王様』に描写されていたこと。その偶然性に、深く感じ入ったのです。
作品の舞台は、個人で営む児童対象のささやかな画塾で、主人公である指導者と、教え子である一人の小学生との心の交流が物語を紡ぎます。小さい子ども向けの画塾とはいえ、親の強い干渉は例に漏れず、指導者としては心穏やかならぬ出来事も少なくありません。その過剰なかかわりを指弾する表現として、次のような一文に目が留まりました。
「きっと彼らは黙っていられなくなって子供に干渉し始めるに違いない。彼らは訓練主義教育で育てられた自分の肉眼の趣味にあわせて子供に年齢を無視した整形やぬりわけを強制するだろう。その結果子供の内側では微妙な窒息が起るのだ。個性のつよい子なら僕と両親の両方に気に入られるよう、二様の画を描いてきりぬけるかもしれないが、薄弱な子は板挟みになって混乱するばかりである。ぼくがだまってさえいれば、いままでどおり両親はすくなくとも画についてだけは子供に干渉することはないだろう。彼らの大部分は中流家庭の流行として子供を画塾に通わせているにすぎないのだ」
開高作品が現代の若い世代に、どのような読まれ方をしているのかは不明ですが、子どもをもつ保護者や教育に携わる人にとっては、思いを巡らせることが多い作品ではないでしょうか。恥ずかしながら私も小学校時代、画塾に通わされていましたが、描きたくもない絵を描かされ、他人から評価されるのが嫌で、早々に撤退した覚えがあります。
●すぐれた文学の可能性
『裸の王様』が書かれた年を繰ってみると1957年とあります。ちょうど私自身が生まれた年という符牒も愉しく、日本は「神武景気(1954年―1957年)」から「岩戸景気(1958年―1961年)」へと歴史的な跳躍を見せる端境期。後に高度経済成長期と総称される時代の初期でした。敗戦で痛めつけられた国民が、欧米をモデルとして「追いつき、追いこせ」とばかりに、一丸となって成長志向を共に抱き、朝鮮特需(1950年)から東京オリンピック(1964年)まで駆け上がっていく時代の熱気の中、大量生産・大量消費社会を支える担い手を育てるのが、最大の教育的課題でもありました。後に、往時の教育制度と受験体制に疑問が投げかけられ、「個性に注目した教育への転換」という問題提起がされるのは、もう少し先になります(堺屋太一著『知価革命』1990年 規格大量生産型の工業社会から、多様な知恵の知価社会へ)。
私が感じた驚きというのは、開高の先見性という要因もありますが、もう少し個人的感慨に近いものです。一言でいえば、すぐれた文学作品が与える深層面の影響、と表すことができるでしょうか。というのも私は、社会人になって以来、実生活においても仕事の場面でも、開高健の『裸の王様』についての記憶を呼び覚ました経験は全くありませんでした。幼児雑誌の開発に携わった時も同様で、企画の取捨選択は、初めて向き合った幼児教育の専門書や専門家の言説などに照らしていたのです。前にも書きましたが、私は子育てをしたこともなければ、幼児教育や絵本に特別の関心を寄せていたわけでもありません。そんな私が、幼児雑誌の方向性を考えるにあたり、開高作品の主題が潜在的に影響を及ぼしていなかったと言えるだろうか。否、おそらく多くの発達心理や幼児教育の論考を吸収する中で、自分が受け入れる傾向の論調が方向づけられていたかもしれない。自分自身が情報処理をする上での要素の一つ、しかもかなり重要な位置に、『裸の王様』で感化を受けた画塾教師の指導哲学が、知らないうちに刷り込まれていたのではないか。本作を再読してそのように思ったのです。物語の世界観もさることながら、たとえば次のような記述は心に深く差し込む、するどさがあると感じました。
コンクールの応募作が積み上げられた子供の作品群を前にして、画塾の先生の気持ちが次のように表されています。
「どの一枚をとってもそのまま絵本の一頁になりそうな、可愛くて、秩序があって、上手で微笑ましい画ばかりであった。理解のない空想、原形を失った感情、肉体のない画が日光を浴び、歌を歌い、笑いさざめいていた。ぼくにはこの部屋にあるものがすべて趣味のよい鋳型の残骸としか考えられなかった(中略)子供は教師の強制を避けるため、教師の弱点を見抜いて教師の気に入るような画しか描いていないのだ。この広間に散乱しているのは廃物の山、子供が現実処理を果たした後の残渣、その子供といっしょに暮らしている人間以外の者にとってはまったく通行止めの世界なのである。この申分のない“鑑賞者”たちは色彩と形のうしろにひそむおびえた暗部や、像に満ちた血管や、絶えず脱出口を求めて流れやまない肉体をなにひとつとして理解することができないのだ」
価値を創り出す側に立つ芸術家にしてみれば、子どもの心の内にある感情の発揚に注目しない創作活動など、認めがたいことでしょう。「没個性」は、もとより子どもの側の問題ではなく、異端を認めない教育を施す側の問題であるということを、開高は訴えています。
物語に描かれた事象は開高の創作なのか、実際に起きていた事実の描写なのか。文学者は時代の批判的な記録者であり、未来を見通す預言者である役割を思えば、どちらとも考えられます。ただ、きっとそのことはさして重要ではなく、文学者が健全な文化の伝承者でもある側面に注目をすると、開高が没したのが1989年。一方、『こどもちゃれんじ』の刊行は1988年。開高作品が秘める普遍性、つまり逞しい人間性の回復は、彼が世を去るとほぼ同時に、別の形で社会に息づきはじめたと言えるのかもしれません。
(令和2年5月2日)
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