水野次郎 – 反早期教育への道筋
道徳的・探究的キャリア教育を考える⑤
水野次郎
『こどもちゃれんじ』初代編集長
キャリアコンサルタント
モラロジー研究所特任教授
●50の文字を覚える前に、100の「ナンダロ」を育てたい
前回は、幼児雑誌『こどもちゃれんじ』の監修者・内田伸子お茶の水女子大学名誉教授の講演録が掲載されているサイトをご案内いたしました(幼児の「遊びと学び」プロジェクト)。
本文には遊びと学びについて、内田教授の考えが書かれています。創刊時に携わったメンバーの思いは「50の文字を覚える前に100のナンダロを育てたい」との広告コピーに象徴され、多くの保護者から賛同いただきました。振り返れば、私たちが1987年に市場調査を進めた時は、世の中に「早期教育」の範ちゅうに入る知育商品が、さまざま出回っていた時代。書店の育児書コーナーの目立つ棚には、「幼稚園では遅すぎる」「人生は3歳までに作られる」といった、センセーショナルなキャッチフレーズの本がずらりと並び、目を惹かされます。当時30歳で育児経験などない私は、その商品群を初めて見た時には仰天しました。後に「3歳児神話」とも称された発達理論を、研究者や企業トップなどの有識者がもっともらしく語り、煽るように誘導していきます。世の親は、遅れてならじとばかりに急き立てられ、「早期教育ブーム」と称される世情が作られていました。
同調するように、子ども向けのコーナーには「学術的な知見に基づき」との触れ込みで、知育教材や玩具が花盛りです。文字、数のワークブックや英語のカード、積み木などの伝統的な木製玩具から、眩(まばゆ)いほどカラフルなプラスチック玩具の数々。大手家電メーカーの参入による電子機器なども加わり、業界を超えて百花繚乱の様相です。玩具の量販店・トイザらスが日本に進出したのも1989年で、「キッズ向けDC(デザイナーズ・キャラクター)ブランド」のファッションが流行し始めたのも同じ頃でした。両親とともに、2組の祖父母がスポンサーとして支える豊かな財源は「シックスポケット」と称され、幼児分野の消費財に新しい光が当てられていきます。折りしもバブル景気の最終盤にあたり、小学校受験が「お受験」として風刺された時代でもありました(1994年にはテレビドラマ化)。私自身は名古屋という都会育ちではあったものの、セミ取りや魚釣りに興じる幼少時代を送っていたので、幼児教育が過熱気味の現象に違和感を覚えたことを思い返します。
●「見える力」と「見えない力」
知育先行の潮流に対して、心の教育の大切さを唱える学者が一方で論陣を張り、私どもが最初に師事した東京学芸大学の辰巳敏郎教授(故人)、前述の内田伸子教授は、その代表的な方々でした。辰巳教授は「幼児期は豊かな情操を育てることが、何よりも大切である」という明確な主張を持ち、内田教授は後に『子育てに「もう遅い」はありません』という著書を上梓されたように、首尾一貫して発達段階に合った成長が望ましいと発言されています。周囲の大人の支援の在り方として、「子どもが自発的に学ぶ態度をいかに育て、そのための望ましい環境をどう整えるか」と投げかける子育て観は、幼児に限らず、さらに上の世代にも敷衍(ふえん)すべき理念ではないでしょうか。「知識詰込み」で批判されてきた旧来の受験教育は、早期知育教育の同一線上に位置づけられると思いますので。
幼児に必要な「学び」と「遊び」を、内田教授は「見える力」と「見えない力」という表現も使い、私たちも引用いたしました。「見える力」と「見えない力」は、近年よく目にする「認知能力」と「非認知能力」という概念とほぼ同義と言えるでしょう。「非認知能力」は、わが国では2015度年から2016年度にかけて国立教育政策研究所が行った入念な調査・研究に基づく、285ページにわたる詳細な報告書によって注目されるようになりました(「非認知的能力〔社会情緒的能力〕の発達と科学的検討手法の研究」国立教育政策研究所総括客員研究員 東京大学大学院教育学研究科教授 遠藤利彦2019年3月)。報告書には、OECDが研究対象として「非認知能力」に注目し、国際的に影響を与えたレポートについても触れています。そこには「非認知的スキルは認知的スキルに対して過小評価されがちであるが、認知と社会情緒の双方のスキルをバランスよく持った、whole childを育てる必要性があると唱えられている」とあります(「非認知的能力〔社会情緒的能力〕の発達と科学的検討手法の研究」)。遡れば1980年代には、「こころの知能指数」と言われるEQ(ワイン・ペイン)という概念が日本にも入り、加熱化する低年齢層への教育を諫める指標として注目されました。こうして30年間ほどの幼児を取り巻く教育環境を概観してみた時に、知育と情操(徳育)教育に関する研究者の応酬が、国の内外でなされてきたことが見て取れます。
こうした風潮の中、わが国で幼児を対象に根強く定着してきているのが、音楽やお絵かき、スイミングなど通所型の習い事文化。30余年前に私たちが市場参入のための調査をした頃、すでに隆盛を誇っていたのは言うまでもありません。また在宅型では福音館書店の『こどものとも』に代表される定期購読誌をはじめ、子どもの情操を育てる良質な絵本もたくさん刊行され、書店や幼稚園、宅配などさまざまな販路を通じて行き渡っていました。一方で、手軽に利用する定期教材の分野では、情操教育と知育教育を組み合わせた複合商品は、ほとんど見当たりません。教材活用の効果としては「見える力」の変化を期待するのが、保護者の心性だからでしょうか。ですからマーケティングの観点から言うと、この空白地帯に新しい価値を創造したのが『こどもちゃれんじ』だったと説明づけられるのかもしれません。
※モラロジー研究所では、教育関係者や保護者の方々を対象に「道徳教育研究会」を主宰しています。今年は第57回目を迎えるのですが、千葉県の柏会場では幼児教育部門も設置。今年度の幼児部門の研修会は7月21日に開催を予定し、次のようなプログラムを準備していましたが、新型コロナウイルスの問題で中止としました(「道徳教育研究会」は8月15日までの開催分を延期・中止としました<4月17日現在>)。今後につなげていく意味で、プログラムのみご案内いたします。
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