八木秀次 – 生命の連続性とは
法と道徳⑥
八木秀次
麗澤大学教授
●祖先から受け継ぎ、子孫に受け渡していくもの
小学校・中学校の道徳が「特別の教科」となるに当たって学習指導要領も改定された。その際、文部科学省にいくつか要望してみた。特に内容項目の「19 生命の尊さ」について「生命の連続性」という考え方に言及するよう要望してみた。自分という存在は自分だけのものではなく、両親や祖父母、さらには祖先から命を受け継ぎ、また自分を起点にして子や孫、子孫に命を受け渡していく存在であるということを生徒に認識させたいという趣旨だった。言い換えれば、「他人に迷惑を掛けなければ自分にだけ関わることは自分で決定してよい」というJ・S・ミルの「他者加害原理」を否定する意味を持っていた。自分にだけ関わることなどない、自分という存在自体が自分だけのものではなく、命を祖先から受け継ぎ、子孫に受け渡していくものだという思いからだった。
その後、文部科学省の中でどのような議論があったのか判らないが、結果として学習指導要領(平成29年3月31日)には「生命が多くの生命のつながりの中にあるかけがえのないものであることを理解し、生命を尊重すること」(小学校第5学年及び第6学年)、「生命の尊さについて、その連続性や有限性なども含めて理解し、かけがえのない生命を尊重すること」(中学校)と明記された。満額回答だった。学習指導要領の解説(平成29年7月)でも「指導の要点」として以下のように明記された。
●満額回答ではあったが……
「中学校の段階では、入学して間もない時期には、小学校段階からの生命のかけがえのなさについての理解を一層深めるとともに、人間の生命の有限性だけでなく連続性を考えることができるようになっている。学年が上がるにつれて、生命について、連続性や有限性だけでなく、自分が今ここにいることの不思議(偶然性)、社会的関係性や自然界における他の生命との関係性などの側面からより多面的・多角的に捉え、考えさせ、生命の尊さを理解できるようになり、かけがえのない生命を尊重することについてより深く学ぶことができるようになる。/指導に当たっては、まず、人間の生命のみならず身近な動植物をはじめ生きとし生けるものの生命の尊さに気付かせ、生命あるものは互いに支え合って生き、生かされていることに感謝の念をもつよう指導することが重要な課題となる。例えば、それぞれの生命体が唯一無二の存在であること、しかもそれらは全て生きているということにおいて共通であるということ、自分が今ここにいることの不思議(偶然性)、生命にいつか終わりがあること、その消滅は不可逆的で取り返しがつかないこと(有限性)、生命はずっとつながっているとともに関わり合っていること(連続性)、生命体の組織や生命維持の仕組みの不思議などを手掛かりに改めて考えさせることができる。そうした学習を通して、自らの生命の大切さを深く自覚させるとともに、他の生命を尊重する態度を身に付けさせることが大切である」
要するに生命を連続性、有限性、偶然性の三つの視点からその尊さを理解させるという趣旨だ。これを受けて初めての道徳教科書ではどんな教材が描かれるのか楽しみにしていた。しかし、期待は裏切られた。以下は、ある中学校道徳教科書(3年生用)の教材の一部である。
「生き物としての特徴の中から、特に大切なことを三つ、まとめてみました。/『あなたが今ここにいることの不思議』、『つながりと関わり』、そして『一人の命には終わりがある』です。じっくり考えたことがある人も、そうでない人もいるでしょう。一つ一つ、どういうことかを確かめていきましょう」
学習指導要領のいう生命の偶然性、連続性、有限性を押さえた記述だ。教材は続けて次のようにいう。
「まず、『あなたが今ここにいることの不思議』についてです。自動車などの人工物は部品を集めて工場で作られますが、あなたは作られたのではなく、生き物として生まれてきました。新しい命の誕生には、男性の精子と女性の卵子が受精する必要があります。このとき、一つの卵に対して、数億もの精子の中の一つだけしか卵に入ることはできません。両親の出会いと、卵と精子の出会いという偶然が重なって、あなたという、他にはないたった一つの存在が、今ここにいるのです。何かの役に立つようにと作られたのではなく、存在そのものに、意味があるのです。/次に、『つながりと関わり』です。あなたが生まれたのは、両親がいたからです。両親にもそれぞれに両親の存在がありました。こうして遡ると人類の始まりにたどり着き、さらに遡ると、三十八億年前に海に存在した細胞にまで戻ります。それは、地球上に暮らす全ての生き物の祖先細胞でもあります。つまりあなたは、他にはないたった一つの存在でありながら、世界中の人と、さらには地球上の全ての生き物とつながっている存在でもあるわけです。一人一人が異なる存在でありながら、基本ではつながっているという意味を考えてみてください」
引用はこのくらいにしておこう。ここに書かれているとは間違っていない。科学的には。しかし、自分が生まれた偶然性を精子と卵の結合で説明されたり、生命の連続性を人類の始まりや38億年前の祖先細胞で説明されても、自分という存在は何者なのかを、深く腹に落ちる形で納得できるだろうか。何か自分とは遠い科学の話としか理解できないのではないか。命を祖先から受け継ぎ、子孫に受け渡していくという趣旨はどこか肩透かしを食らったような形になっている。
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